298人が本棚に入れています
本棚に追加
/96ページ
☆
夏も盛りのこの時期は、なかなか日が沈まない。オレンジ色の残り陽のなか、佑太が帰宅したのは午後7時少し過ぎた辺りだった。
『めし屋』では佑香が客席の間を忙しなく動き回っていた。
「佑太、おかえり」
「ただいま」
普段から出入りするのは店の入り口からなので、佑太に気付いた佑香が真っ先に声をかけてくる。そうすると、ちらほらいた近所の常連客も、「おかえり」なんて言ってくれるのだ。そんな店の雰囲気が、佑太は結構気に入っている。
何人かの常連客と二言三言言葉を交わし、奥の階段へ向かう。と、厨房から母親が大きな鍋を持って現れた。
「あらちょうど良かった」
「なに、かあさん?」
小首を傾げてそちらを見れば、母親はニコニコと接客用の笑顔を浮かべている。
「これ、水野さんちに持って行ってくれない?ついでにあんたも一緒に食べてきなさい」
という事は、その馬鹿でかい鍋にはカレーが入っているのか。それに、カウンターの裏にはこれまたでかいカゴが置いてあり、その中には大きめのおひつと、カレー皿とスプーンが2組。
「って、なにがちょうど良かった、だよ!しっかりそのつもりじゃん!?」
「まーまー細かい事はきにしない。あんた水野さんと仲良しじゃない」
「別に仲良しじゃないって」
一方的に絡まれているというのが、佑太自身の認識である。
「さ、冷めないうちに持ってって。頼んだわよー」
母親は間延びするような声を出し、厨房へと戻ってしまった。佑太に拒否権はないようだ。
「いいなあ。あたしも水野さんとご飯一緒したい」
気付けば佑香が背後からそんな事を言う。
「はあ?なんで?」
「だってイケメンだし」
「相変わらずのメンクイか」
指摘するも、佑香は気にしない様子で、それから落ち込んだようにため息を吐き出した。
「んでも水野さん、あたしがご飯食べてる時はいないんだよね。図ったみたいに佑太がいるタイミングでいるんだから」
「マジかよ」
新事実だ。確かに、佑太が食事をする時や、店の手伝いをしている時は必ずいるため、それが普通なのだと思っていた。
龍神恐ろしい。とは、思っても口には出さない。
「しゃーないから行ってくるわ」
佑太がカゴを抱えると、佑香は恨みがましい目をしたまま手伝いに戻って行った。
☆
「お邪魔しまーす」
隣の淡海堂に向かい、店の引き戸を開けて声をかける。淡海堂は相変わらず薄暗く、そして何故か空気がヒンヤリとしており居心地がいい。
「佑太か」
「夕飯持ってきました」
「すまんな。シャッターしめてくれるか」
言われた通り、佑太はカゴを一度下ろして店のシャッターを閉めた。
「なにしてるんですか?」
カゴを持って水野のいる畳へ近づくと、彼は畳の上に胡座をかいて座り、書き物机の上を睨みつけていた。
あまりにも真剣なその表情につられ、一体なにを見ているのかとそちらに視線をやれば、
「うわっ!?に、人形?」
不気味な日本人形であった。肩までの黒い髪は少し跳ねており、長さも均等ではない。着物も端が擦り切れ、所々黒ずんでいる。お世辞にも綺麗とは言い難い。とても古い物のようだ。
「市松人形だな」
「結構汚いっすね」
正直な感想を言えば、水野は佑太を睨み付ける。
「お前な、せっかく僕が半日かけて泣き止ませたのに」
「な、泣き止ませた?」
どう言う意味ですか、という言葉をゴクリと飲み込む。佑太の視線の先、市松人形は、文字通り涙をポロポロと零し始めたのだ。そして心なしか、最初に見た時よりも悲しげな表情。
「ウソ、だろ」
「嘘じゃない。此奴は百年を生きた立派な妖物。まったく、僕は便利屋であって祓い屋ではないのだが。夏場はどうしてこうも怪異ものの依頼が多いのだ」
この間もお祓いまがいの事をやったと言っていた事を思い出す。
「って、この人形どうしたんです?」
「この間のバカ息子の所の母親からの紹介でな。なんでも夜な夜なメソメソと泣き声がするというので、足を運んでやったら此奴がいた」
「そーですか」
確実に怪異関係の依頼専門と思われてますよ、と指摘する勇気は無かった。
そんな会話の間も、市松人形はシクシクと涙を流し続けている。
「佑太、責任を持って慰めてやれ」
「俺!?」
「当たり前だ。誰が泣かしたと?」
確かに自分の心無い発言のせいだ。いやでも、まさか人形に心があるなんて思わないだろう。
「うーん、えっと、肌が白くて綺麗です、ね?」
『シクシク、シクシク』
「えーと、お化粧似合ってますよ、目が大きく見えます」
『シクシク、シクシク、シクシク』
「着物っていいっすよねー」
『シクシク、シクシク、シクシク、シクシク』
「龍さん、俺にはムリっす」
諦めて龍神さまを見る。龍神さまは、腹を抱え、必死に笑い声を噛み殺している所だった。
佑太は驚いた。人形が泣き出した事よりも、だ。
「龍さんも笑うんすね。つか、笑いすぎじゃないっすか」
「アホか、これが笑わずにいられるか!お前、絶対モテないだろう!?」
そこで我慢できなくなったのか、龍神さまはゲラゲラと大袈裟なくらい大きな声で笑い出した。
「確かに彼女いたことありませんけど!!」
ギャハハハと転げ回る龍神さま。佑太の顔は真っ赤なユデダコである。
「はあ、はあ。佑太のアホ」
しばらく笑い転げ、落ち着きを取り戻した龍神さまが人形を指差す。人形はもう涙を流してはいなかった。
「お前の醜態が効いたようだ」
「そっすね」
落ち込む佑太をよそに、水野は佑太が持ってきたカレーをよそい始める。散々笑い転げていたくせに、切り替えの早い神である。
「ところで、相変わらずの生活感の無さですね」
「ん」
2人向かい合ってカレーライスを食べる。テーブルも無いので、お互い皿を手に持つというスタイルだ。ちなみに二階の住居スペースにも何もないそうだ。
「そういやエアコンもないのに、なんでこんな涼しいんですか?」
「僕は水の神だからな。空気中の水分の温度くらい変えられる」
「へー」
便利な能力もあるんだなあと感心する佑太だ。
「でももうちょい人間らしい生活しません?」
「む、何故だ?」
「そりゃいつまでもペットボトルから直飲みってのも、なあ」
食器のない淡海堂では、基本的に佑太がペットボトルのお茶を持ち込む。それを平気で直飲みする神さまだ。気品も何も感じられたものではない。
「佑太がそういうなら善処しよう」
「はあ」
「確かにお前が来た時は困るな」
なにやら真剣な表情になる神さま。
「いや、俺のためじゃなくてですね」
「しかしお前が困るのなら問題だ」
なんだか話が噛み合わない。どうもこの龍神さまは、佑太をかなり気に入っているようで、出会ってからというもの、こうして佑太の意見だけは積極的に聞き入れようとする傾向にある。
なんだかなあ、と微妙な気分でカレーライスを突いていると、佑太のスマホがポケットの中でブルブルと震え出した。
「ん、夏?」
画面の表示は、夏からの着信だ。迷わず通話ボタンを押す。
「どした?」
『ゆ、佑太くん!!大変、郁くんと魁斗くんがっ……ザザザ』
焦ったような夏の声が、ノイズに搔き消える。
「夏、聞こえない。何かあったのか?」
『ザザ、ザザ……佑太く、ヤバいよ!ザザ、ザ』
そこで通話が途切れた。ツー、ツー、と無機質な電子音だけが聞こえる。
「どうした?」
水野が怪訝な顔で佑太を窺うようにみている。
「夏からの電話、なんですけど、なんか様子が変で」
と、そういえば、あいつらは今頃肝試しと称して心霊スポットに行っているはずだ。
まさかなにかあったのか?
「ちょっと心配なんで探しに行きます!!」
涙を流す人形が存在するのだ。心霊スポットには、もしかしたら本当に何かがいたのかもしれない。だとすると、夏たちは危険な目にあっているのではないか。
そう考えて、急いで靴を履き駆け出そうとする佑太。
「なるほど。お前の友人らは相当馬鹿なようだな」
「え?」
「経緯はしらんが場所はわかった。急ぐのだろう?」
「っはい!」
「ならば僕が連れて行ってやろう」
え?と、疑問をぶつけるよりも先。水野の身体が神々しい光を放つ。黒い髪は白銀に、白い肌には銀の鱗が。ブワリと強い風が建物のなかを蹂躙する。
「え、ちょ、待って!?」
次の瞬間には、閉まっていたはずの引き戸とシャッターが物凄い勢いで勝手に空いて、佑太を乗せた白銀の龍が、星空の下を駆け抜けて行った。
最初のコメントを投稿しよう!