嫌いなあなたに花束を。

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嫌いなあなたに花束を。

私があなたを嫌うのは、きちんと理由があるのです。今こうしてこの紙っぺらを握りしめることも。三十年間私の全てを注いだ銀の輪がテーブルの上に転がっていることも。それが転がっている近くにはあなた用の冷めた夕食があることも。  私はわかっていました。わかっていたけれど、それを言う勇気がありませんでした。そうすればきっとあなたは頷くことを知っていましたから。あなたが困ったように眉尻を下げることが勝手に浮かんでくるのです。  私の家は広くなりました。七年前に娘が自立して、さらに五年前、あなたも居なくなってしまいました。  私はこれからあなたにお別れを告げに行かなくてはなりません。この紙を役所に出しに行くのです。あなたと昔デートした水族館でもらったクリアファイルに紙を入れます。丁寧に、一つの皺もないように。  受付で年増の女性に紙を渡します。私はバスで来た道を歩いて帰ることにしました。最後のお別れをするためです。バスではあなたのところに寄れませんから。  途中のお花屋さんで花束を買います。燃えるような赤の鮮やかなお花。別れには似つかわしくないかもしれません。だけど、青などの色にしてしまってはだらだらとした別れになってしまいそうなのです。悲しい雰囲気で終わらせたくはないという悪足掻きでもあります。せめてこの花の色のように笑っていたいのです。それに、きっと何色でもあなたは許してくれると知っていますから。  あなたの前立つのは何度目でしょうか。もうこれが本当の最後だと思うと、少し悲しいですね。あなたはもう何も言ってくれません。何度尋ねても、私が泣いて見せても、あなたの感情はわかりません。あんなに私を見つめてくれた目はもうみえなくなってしまいましたか。…なんて、当たり前ですね。  本当のお別れですよ、と声をかけます。それでもあなたは応えません。もうなんとも思ってないのでしょう、と意地悪言ってしまう私を許してください。だって最後ですもの。  人が砂利を踏む足音が私の真後ろて止まるのと、気配を感じ後ろ振り向くと、  「…そうなのね」  あなたとよく似た顔の女性が立っています。だいぶ皺が増えましたが、五年前より顔色はだいぶよくなったのではないでしょうか。彼女の言葉に私は頷いて微笑みますと、彼女もホッとしたように微笑みます。 「最後?」  ゆっくり、頷きます。 「そっか、最後なのね。最後。」  噛みしめるように、ゆっくり、頷きます。   彼女に軽く会釈をして立ち去ろうとすると、肩を叩かれます。  「三十年間、愚息に連れ添っていただき、誠にありがとうございました。」  彼女のお辞儀は深く、それはもう土下座でもされているような気持ちにさせるほどでした。  義母は、本当にいい人でした。こんな私を受け入れてくれて、料理も教えてくれました。何度でも、私がわかるようになるまで、ゆっくりと。私にはそれがどの位嬉しかったことか。義母には感謝しかないのです。    だからこそ、私は夫とお別れすることができなかった。彼女はもう解放されて自由に生きて欲しいと、そう何度も言ってくれました。  しかし、私は知っています。本当に解放されたいのは彼女自身であるのを。彼女は本当に私を愛してくれました。それこそ我が子のように。だから、簡単に私を突き放せないのでしょう。もうあなたの夫は死んだのだから、墓参りに来る必要などないと。花を手向けることは要らないと。早くその姻族関係終了届を出しなさいと。強く言うことなど、できるはずもなかったのでしょう。  偽の母と娘の関係でも楽しかったのです。あなたはこんな私でも愛してくださいました。  私はあなたたちを愛しています。  だから、私たちのどちらかが突き放さなければ、あなたが解放される日など来ないのです。私に病気を勘付かれていることを知りつつ尚隠し続け、静かに眠っていった彼から。そして、私から。 きっと人格者の義母は、まだ人生半ばでこの世を去った息子を憐れみ、その妻である私を愛しんだことでしょう。  だから、私は彼女に伝えなければいけないことがあるのです。 「おかあさん。私、結婚するんです。こう言ってはなんですけれど、前夫の時より豊かな暮らしをしておりましてね。前夫より気が利いて、」 今朝指輪を外したばかりで少しまだ違和感のある左手で拳を握ります。 「とっても幸せなんです。だからもう私があなたたちを好きでいる理由が、なくなったんです。だから、最後なんです」 そこにもう何もはまらないであろう薬指に視線を落とします。 「もう、私のことは気になさらないでください。もう会うこともないと思います。」 私のことをどうか嫌って頂きたいのです。 ふと、指輪の跡が目に付きます。 残ってしまうのでしょうか。それならば、一生でも私を縛っていてほしいものです。 あなたとの日々を忘れてしまわないよう。 「でも、それでもあなたは私の」 「それに、あなたの、偽善的なところが私、大嫌いだったんです。結婚した時も子供が出来た時も、夫が死んだ時だって、あなたいつでも私に寄り添うふりして"いい義母"になっていたの知ってるんです」 だからもう会いたくないんです、と小さく声に出すと、義母が震えたのが伝わりました。あぁ、本当にこれが最後なのでしょう。 さようなら、おかあさん。 「ありがとうございました」 先程花屋で買ったカーネーションを義母の手に握らせ、もう一度歩き出します。 もう振り向かないようにと、左手を握り締めながら。  
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