スマートフォンがない世界

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 第九章 「美花との会話」  翌朝6時。俊一はやかましく鳴る目覚まし時計のアラームを止め、居間に向かった。たんすから水色の七分袖シャツと紺色のジーンズを出して自分の部屋に戻ると、机に置いてある段ボールの上でフロイデが顔を洗っていた。「早いな」と声をかけると、こちらをじっと見て「な~」と鳴いた。  着替えを終え、キッチンに行くと母親が祖母と話していた。どうやら祖父を 施設に入れるための書類を書かなければいけないらしい。そのために施設を五か所ほど見学し、紙に三つほど希望を書いて職員に渡さなければいけないのだ。  「来週が締め切りなのよ。まだ全部書き終えられないから困ってて」「向こうの言うように書けばいいじゃない」毎朝七時から八時まで続く、同じ会話。  それを聞かないようにしてトーストをオーブンに入れて焼き、目玉焼きを乗せて食べる。テーブルにはほかに野菜ジュース、ヨーグルト、カマンベールチーズなどが並んでいる。  十五分で食べ終え、スクールバッグを持って家を出る。すし詰め状態の湘南新宿ラインに乗っていると、同じ車両に美花が乗っているのに気が付いた。彼女の前に立っていた女性が大船駅で降りて座席が空いたので、「篠原、隣いいか?」と聞く。「うん」と言われたので、そっと座席に腰を下ろす。美花のスクールバッグには白いゴマフアザラシの赤ちゃんのマスコットがついている。  「それかわいいな。雑貨屋さんで見つけたのか?」「うん。動物のチェーンマスコット専門のお店が東京の渋谷にあって、お母さんと一緒に行った時に買ったんだ」「へえ。俺、東京って一回も言ったことないんだよな」そんな 会話をしていると『次は鎌倉、鎌倉に止まります』とアナウンスが車内に響いた。「乗り過ごしそうになっちゃった。降りよう!」「うん」二人は急いで 電車から降りて駅の改札口に向かった。  小町通りをぶらぶらと歩いていくと、黒いサングラスをかけた若いアメリカ人のカップルが楽しそうにしゃべりながら二人のそばを通り過ぎていくのが見えた。彼らはソフトクリームを売っている店の前で立ち止まってバニラ味のソフトクリームを一本買うと、それを二人で食べ始めた。コーンが最後のひとかけらになったところで、男性が女性の口の中にそれを入れた後、口づけを交わした。俊一と美花は思わず固まってしまう。  「すげえな、アメリカ人って。こんな通りのど真ん中でも平気でキス。俺だっだら恥ずかしくてできねえ」と小声で言うと、「うん。私もちょっとできないな」と返される。「ここは食べ物やアクセサリーを扱う店が多いから、外国人が多いよな。あとグッズ店も」「うん。日本人より外国人の方が多い気が する」そんな会話をしながら歩いていると、美花の腹がギュルルルと鳴った。  「お前飯食ってないな、さては」と言うと、美花はうなずいた。「そこに 江戸時代から続いてるだんごの店があるから、入ろう。俺も二回買ったことがあるんだけど、とってもおいしい」「ありがとう。お腹すいてたんだ」二人は引き戸を開けて中に入った。「いらっしゃい!」という掛け声が店内に響き、店員が客たちの間を忙しく動き回っている。  「何になさいますか?」と50代ぐらいの女性に聞かれ、俊一は「俺はしょうゆとごま」、美花は「みたらしとよもぎで」と答え、メニューを彼女に返す。若い男性の店員に「すみません、荷物を入れるかごを二つ持ってきてください」と頼む。彼はすぐに茶色いかごを持ってきてくれた。「ありがとうございます」と礼を言って、美花の荷物をかごの中に入れる。  「ありがとう」とにっこり笑う彼女に、心拍数が上がるのを感じ、コップに入った水を一気に飲む。そのあと、「今日は土曜日で学校の授業がないから、子ども連れが多いよな」と話しかける。「子どもって小さい時は自分の思い通りにならないと大声出すよね」と言って美花は小さく息を吐く。  「私もそうだったな。三歳の時におばさんにデパートに連れて行ってもらったことがあるんだけど、子供服のコーナーに何も絵が描かれていない水色のTシャツが置いてあったの。買ってもらいかったんだけど、値段を見たら3500円って書いてあって、「ちょっと高いから、買えないわ」って断られて、『嫌だー!』って泣いたんだ。そのあとおばさんとギョーザの店でご飯食べた」そう言って、美花はコップに入った水を飲んでから「ところで、最近悩んでることってある?」と聞いてきた。 「母さんとのことかな。美容院で新しくスタッフとして入ってきた女性にシャンプーやカットのやり方を教えてるんだけど、ストレスがたまるみたいでさ。 自分の感情、特に怒りを抑えられなくなってきてるんだ。昨日、あまりに腹が立ってケンカしちゃったよ」と答えて、俊一は水を少し口に含んで飲み込んでから、ため息をついた。「年とっても、ああいう人にはなりたくない。うちで飼ってる猫のフロイデは、そういうのを聞き流すのがうまいんだ」そんな彼に、美花は「おいしいだんご、食べるの楽しみだね」と声をかける。「うん。全部手作りで、一番売れてるのはみたらしなんだって」そう答える彼の表情は、少し明るくなっていた。    奥のほうからしょうゆ団子の香ばしいにおいが漂ってきて、二人は思わず 鼻をひくひくさせる。「お待たせいたしました」と言って、先ほどの男性店員が皿に焼きたてのだんごを二本ずつ載せて彼らの席に来た。しょうゆとごまのかかっただんごが俊一の前に置かれ、続いてみたらしとよもぎのだんごが美花の前に来た。「おいしそうだな」と言って、俊一はごまのだんごをひとつ串からはずし、「ひとつどうだ?」と美花の皿に載せる。「ありがとう」とにっこり笑って、彼女はだんごを口に運ぶ。  「ごまの香ばしさとだんごのもちもち感があって、おいしい!」と幸せそうに呟く美花の様子を見て、俊一はほっとした。それから自分の皿からしょうゆだんごの串を一本取り、口に運ぶ。固めの食感と塩の味が素朴(そぼく)だ。  「そんなにからくなくてうまい」と言うと、「一個ちょうだい」と目の前に 皿が差しだされる。「いいよ」と言って茶色いだんごを串から取り、彼女の ほうへ渡す。「よもぎだんご一個もらっていいか?どんな味なのか気になるよ」と言うと、緑色のだんごが一つ、彼の皿に置かれた。「ありがとう」と 言って食べてみると、甘さが口の中に広がった。  そんな風にして注文しただんごをすべて食べ終え、会計を終えて外へと出ると人通りはだいぶ少なくなっていた。二人は日陰に入りながら改札口を抜けて階段をのぼり、横須賀線の電車に乗りこんだ。俊一は美花を空いている席に座らせ、しっかりとつり革につかまった。  「篠原、今日はたくさん話せてとても楽しかったよ。俺の悩みも聞いてくれて、ありがとうな。しゃべったことで、気持ちが軽くなったよ」俊一の言葉に、美花はしどろもどろになりながら「私も、中三の時にどこの高校に行くかで母とケンカして、おばさんに自分の気持ちを聞いてもらったことがあったから」と返した。  しゃべっているうちに電車は鎌倉を通過し、戸塚駅に到着した。二人は改札口を通り抜け、本屋の前に来て別れた。  「俺はあそこで本何冊か立ち読みしてから家に帰るわ。好きな小説の新刊が出てる」「わかった。気を付けて」階段を上がっていく彼女の姿が見えなくなるまで手を振る。本を読み終えてバス乗り場に向かう途中、俊一は彼女と今日交わした会話を思い出し、温かい気持ちになった。    
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