スマートフォンがない世界

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 第十三章 「正樹の応援」  それから三週間後の金曜日。俊一は美花、みどりとともに病院の前にいた。 工事を終えたばかりの白い建物はまるで大きな城のようだ。院内は清潔で、あちこちにさまざまな機械が置かれている。みどりの手からは汗が大量に分泌されている。 看護師に呼ばれて三階の病室に行き、ドアをノックする。すると制服姿の正樹が顔を見せ、三人に向かってにっこりと笑った。彼に促されて中に入り、ベッドの脇にある丸いイスに腰かける。部屋の中には彼以外にもぜんそくの症状を 持つ小学生の男の子二人がベッドに腰掛け、看護師が彼らの様子を見ながらあわただしく移動している。  「篠原、佐藤、みどり。暑いのによくこんなとこまで来たな」穏やかな口調で声をかける彼に、俊一は「これ、冷蔵庫で冷やして食べてください」と言って薄いピンク色の紙袋を渡す。「おいしそうだな。何だろう」と呟く彼に「水ようかんです。北海道で作られたあんこを使ってて、おいしいんです」と答える。  「そりゃいいや!ありがとう。ここのところ甘いもの全然食ってなかったから、すげえ嬉しい」と満面の笑みを浮かべながら、正樹は俊一の肩に手を置いて三人の方を振り返り、「歩道の真ん中で急に倒れちまって、びっくりさせちまったな。ごめん」と謝った。  「体は大丈夫なんですか?」と聞く美花に、正樹はうなずいて「今週の金曜日には学校に行けそうだってさ」と答えた。  みどりは彼のネクタイを握りしめながら「正樹、心配させないでよ」と小声 で言った。それから目をしっかりと合わせて「ごめん。いつも私のこと気にかけてくれるのに、私はあなたの力になれてない」と謝った。正樹はスリッパを履いてベッドから下り、彼女のそばへ寄る。そうして背中を軽くたたきながら 「バカ、そんなこと気にしてねえよ」とため息をつく。ベッドに再び腰をおろしてから「それよりお前、進路大学だろ?担任との話し合いはどんな具合?」と聞いた。  彼の言葉に、みどりは「それが、まだ全然進んでないんだ」と答えた。「願書の締め切りって11月だろ?早く出さないと終わっちまう」「そうなんだけど、自分がどうやって生きていきたいかっていう目標がないまま進めても、きっとどこかで問題が起きて先が見えなくなる」  彼女の「先が見えなくなる」という言葉を聞いて、俊一と美花は顔を見合わせた。自分たちも、やがて決めなくてはいけない道。みどりの悩んでいることは、今二人が悩んでいることでもあった。  「別に、途中でやめたっていいと思う。俺の姉貴によると、大学はすげえ数の人がいるし、授業も選択制で最初は慣れなかったらしいし。結局2年で辞めたけど、そのあと独学でドイツ語勉強して5級の試験に受かったし。つまり何が言いたいかっていうと、道はあとから変更してもいいってこと。それによって新しい出会いがあるかもしれないし、楽しいと思うことも見つけていけるかもしれない」  正樹の前向きな言葉に、三人は思わず「おおー」と拍手する。みどりはにっこりと笑って「少し元気が出てきたよ。正樹、ありがと」と言って病室の出口に向かう。俊一と美花も慌ててスクールバッグを肩にかけ、「お会いできてよかったです」と声をかける。「こちらこそ。来てくれてありがとう。外は気温が高いから、気を付けて」と返され、一礼してからドアを静かに閉めて廊下に出る。  みどりとともに病院の外に出ると、厚い入道雲が空を覆っていた。湿った 風が三人の着ているブレザーのすそを持ち上げる。街路樹にとまっているミンミンゼミが「ジジッ」と鳴いて木から落ち、しばらくして息絶えた。  「セミの命って短いらしいよね。その間、懸命に生きるんだ。すごいな」 みどりが小声で呟くのが聞こえた。「私には中学生と小学生の弟がいるんだけど、二人ともすごく自立したいっていう気持ちが強いんだ。中学生の方はユキトって名前なんだけど、通ってるもみじヶ岡中学校に新しい部活『手紙交換部』をクラスメイトと一緒に作って、彼らや地域の人たちと一緒に活動してるんだよ。その前向きさに驚いたなあ」彼女の言葉に、美花が「私も、横須賀線に乗ってそこに通ってました!」と反応する。「え、そうなの?横浜から二駅だから、近いんだよね」と返し、みどりは自動販売機に近づいて小さなボトルに入ったオレンジジュースを買って少しだけ飲み、キャップを閉めてスクールバッグのポケットにしまう。  「小学生の弟さんは何て名前なんですか?」俊一が質問する。「真人《まさ と》。今は小学五年生。足に軽いまひがあって、毎晩ユキトがマッサージしてる。エコ委員をやってて、ペットボトルのキャップをいっぱい集めてるよ」そう言って彼女は駅の改札口に視線を移した。別の高校の生徒たちがおにぎりの 入ったレジ袋を持って大きな声でしゃべりながらホームへと下りていく。 「高校一年生のころ、私もよく正樹と一緒に帰ってたな。あいつはすごく前向きで、励まされる」みどりが彼らを見ながら呟く。 俊一はそんな彼女に「清水先輩も、俺たちのことを気にかけてくれてます。入ったばかりのころ、なかなか授業の内容をノートにとれなくて困ってた時に『自分の言葉でまとめてみるといいよ』って声をかけてくださったっことで、一目で相手が『整理されてるな』と思えるように書こうと意識するようになったんです。  三週間前、国語の授業で自分が気になった新聞記事を読んで、それについての意見をまとめるという課題が出されたんですが、先生から『とても分かりやすく書かれていますね』とほめていただいたんです。清水先輩の言葉がなければ、ノートの取り方を変えようとは思わずに失敗していたかもしれません。 ありがとうございます」と礼を言った。  後輩の思いがけない言葉に、みどりはスカートのポケットからクローバーの 柄のハンドタオルを出して目元をふく。「泣かせないでよ」涙声で呟く彼女に、俊一と美花は顔を見合わせて「先輩、照れ屋なんですね」と言った。  そのあと三人は同じ電車に乗って横浜の本屋に向かい、それぞれ三冊ずつ本を買ってから北改札口の前で別れた。みどりが「気を付けて」と二人に向かって手を振りながらにっこりと笑った。  帰りの電車の中で美花が「先輩、表情が少し明るくなってたね」と俊一に 話しかけた。「うん。正樹先輩からパワーもらったと思うよ」と返しながら、 俊一はほっとしていた。    
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