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5.挨拶
「ごめんね」
今度は彼女が謝っている。
「あの時、いきなり馬鹿じゃない、なんて言って。驚いたよね? あの後、後悔して謝ろうって思ってたの。あの喫茶店に何回か行ったんだけど会えなかったわ」
「え、そうなんだ」
僕の気持ちは高揚していた。彼女も僕に会いたかった、なんて……!
「僕もよく行ってたんだけど、タイミングが悪かったんだね。今日、会えてよかったよ。……あ、でも、なんで逃げたの? 目、合ったよね?」
「うーん」
彼女は困ったような顔になる。
「何でかなあ。恥ずかしかった、のかな。それとも」
「それとも?」
不意に佳絵が僕をみつめた。
「君が追いかけて来てくれることを期待していたのかも」
「あ、そうなの」
何でもないことのようにそう答えたけれど、僕の体の中でチキンハートは上へ下への大騒ぎだ。
「ねえ、どうして追いかけて来てくれたの?」
「それは、気になったから」
「ふうん、そっか」
屈託なく彼女は笑った。その笑顔に、あ、いいコだな、なんて思ってしまう僕は単純だろうか。赤井や園田が言っていた彼女にまつわる悪い噂なんて、彼女の笑顔の前では無力に等しい。噂なんか、信じない。
「あたしのこと、変な奴だと思わない?」
不意に彼女が言った。僕は少し考えてから、本心を言う。
「思うよ。ちょっとだけ」
「素直ねえ」
彼女は柔らかくそう言うと、空を見上げた。日の光を吸い込んで、彼女の緑の瞳が麗しく輝く。
「みんな、そう言ってあたしを敬遠するわ。無愛想で何考えてるか判らないって。父親もそう言うの」
僕は黙って、彼女の線の細い横顔を見ていた。彼女の言葉の端々から滲み出ているのは冷たい孤独だと思った。
「女の子なんだから、いつも笑顔でいなさい。誰にでも挨拶して、好かれるように上手くやりなさい、だって。別に無理に好かれなくてもいいって言ったら、お前の気持ちなんか関係ない、愛想笑いでいいから、挨拶して、親の立場を考えていい娘と思われるように振る舞え、って」
「……それ、高森さんのお父さんがそう言ってるの?」
「うん。うちの父親、会社の重役だったりするから、いわゆる世間体っていうのを重んじる人なのよ。……別に、挨拶するのが嫌とか、悪いって言ってるんじゃないのよ? 挨拶なんて生活する上での基本中の基本だもんね。それはいいの。だけど、愛想笑いでいいとか、好かれるために挨拶しろってつまり、媚びてることだよね? 何か、違うんじゃないかなって。……だから愛想笑いして挨拶する奴ってあたし、気持ち悪いっていうか、嫌いっていうか」
「あ。それであの時、僕に笑ったって」
「ああ、ごめん!」
佳絵はそう言うと、ぺこりと頭を下げた。
長い髪がさらりとなびいて、いい香りがする。
「あの時、君が愛想笑いしたような気がしたの。でも、違うよね。自然に挨拶してくれただけだったのに、あたしって馬鹿とか言って……本当にごめん」
「いいよ。別に、何とも思ってないし」
「だったらいいけど。あたし、やっぱり、変な奴だよね……」
「いや……」
僕は少し考えてから言った。
「何ていうか、その、高森さんの気持ち、判るような気がするから。……君はさ、挨拶がどうとか、愛想笑いがどうとか言ってるけど……そんなものに確かに嫌悪を感じてはいるんだろうけど、でも、本当に君が嫌なのは、そんなことを君の親が君に、まるでそれが正しいことのように言うことなんじゃないのかな。そんな親の気持ちがなにより、嫌なんだよね? 君は怒っているというより、傷ついているように見えるよ」
佳絵が目を見開いて僕を見た。そして、とても小さな、けれど誠実な声で一言、言った。
「ありがとう」
「い、いや……」
僕はまたおたおたした。
思ったことをなんとなく口にしただけなのに、僕の言葉は佳絵のどこかにヒットしたみたいで、なんだか深刻な雰囲気になってしまった。どうしていいいか判らない僕は、ただ、彼女の隣にいることしか出来なかった。
「あたしね」
唐突に佳絵が話し始めた。
「人が微笑んだりするのを見ると、この人、何か下心があるんじゃなかって疑ったりしてしまうのね。だから、知らない人同士が自然と微笑み合うことなんかないって思ってた。ほら、君も見てたでしょ、あの喫茶店の中で、君以外の人はあたしと目が合うと、みんな目を逸らすか嫌な感じでニヤニヤするかだった。それが友達同士だったら、やあ、なんて手を振って微笑みあったりするんだよね」
「当たり前だろ。知らない人にやあ、なんて言わないよ」
思わず、笑ってそう言うと、佳絵はこくりと頷く。
「でもさ、人の優しさ、信じたくなるんだよね。自分の好きな人にあげる微笑みとか優しさとか、知らない人にも何の下心なく、あげられたらいいよね。
愛想笑いなんかいらない。愛想笑いは自分のためにあるものでしょ。それは何も救えない。自分の心だって救えないよ。
君は何の下心もなく、あたしに挨拶してくれたんでしょ? 知らないあたしに。
あの時は混乱しちゃって、あんなこと言ったけど、でも、本当は嬉しかったの。こんな人もいるんだって。まだ、この世界も捨てたものじゃないなって」
佳絵は少し、恥ずかしそうな顔をする。
「そんなことが自然にできる人は幸せだと思うの」
胸の奥がうずいた。
僕は佳絵にそんな風に言われるほどの男じゃない。
だって、僕が挨拶したのは佳絵が綺麗な女のコだったから。男だったら知らん顔をしていただろう。
果たして僕に下心がなかっただろうか?
ねえ、佳絵。僕は君が君だったから挨拶したんだよ。
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