4.微笑

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4.微笑

 彼女のまっすぐな眼差しと僕はどのくらいの間、向き合っていただろうか。  その時、赤井やいけ好かない園田の存在はきれいに頭から消えていた。今まで付き合ってきた女のコのことだってもう何も思い出せない。 僕は初めて女のコを好きになった小学生レベルにまで心は落ちていた。 「高森佳絵……」  すぐ近くで声がした。  何かを呪うような、低く暗い調子の声だった。  園田? そう思った時、高森佳絵が突然、身をひるがえして店を出て行った。  え!  僕は慌てて立ち上がると、次の瞬間には駆け出していた。後ろで赤井が何か言ったが聞こえなかった。  ★  セーラー服との追いかけっこはすぐには終わらなかった。  相手は女のコとたかをくくっていた自分が情けない。とにかく、彼女は足が速かった。二、三メートルくらいに距離が縮まった時、「ねえ、待ってよ」と声を掛けたが、その途端、彼女は猛然とスピードを上げた。あれよあれよとセーラー服は遠のいて、僕は唖然とする。もうこっちは息が上がっているって言うのに。  中学の頃はサッカー部に所属していたけれど、高校に入ってからは帰宅部だ。思わぬところで運動不足が露呈した。  本気でもう帰ろうかなあと思ったのは、彼女は丘へと続く石段を駆け上がり出した時。  嘘だろ……。  僕は思わず、立ち止まる。  この町の中腹にある小高い丘の石段は、僕が子供の頃、サッカー部の特訓のひとつに組み込まれていた。このかなり長い石段をうさぎ跳びで登らされたかと思うと、今度はダッシュで駆け下ろされたり。タイムが悪いともう一度やり直しをさせられたよな。  思い出すと頬が引き攣る。あの時の辛さをまだ忘れていない。  きっと、彼女は学校に戻るのだろう。  僕はどんどん小さくなる背中を見上げた。あのコの学校はこの上だもの。  いい環境だよな。丘の上は見晴しがいいし、ちょっとした公園もあったよな。いい風が吹いてくるし。  僕はふと、汗だくになった自分を見る。もう九月だけど、まだ気温は高い。  そうだな、あそこの公園で涼んでいこうか。  てなわけで、今度は走らずに、のんびり歩いて石段を上がった。  佳絵と話しがしたかったけれど、さすがに女子高にまで追いかけていく勇気も無謀さも僕にはない。まあ、その前に体力もないけど。  こうして懐かしい公園のベンチに腰を下ろしていると、サッカー部のことをいろいろ思い出された。  例の特訓が終わった後、みんなバテバテでベンチや芝生の上で寝転んでいると、いつの間にかいなくなっていた先生が、スーパーの袋を両手に現れて、ほら、飲めとみんなにスポーツドリンクを手渡してくれた。  その時は軽く、ありがとうございまーす! なんて言って、笑って受け取っていたけれど、三十名近くいる部員のために、丘の下のスーパーまで行って重たい缶ジュースを人数分買ってきてくれたことを、今、改めて思うと何やら胸にじんとくるものがある。  厳しかったけど、いい先生だったよな。  たかがジュースの買い出しごときだけど、誰かのために頑張れるっていうのは実はすごいパワーが必要で、尊いことなんじゃないのか、なんて僕は思う。  だらだらと日々を過ごしているこの僕に、そんなパワーはあるだろうか?  ふっと息をついた時、誰かが僕の頭を小突いた。  ぎくりとして顔を上げて、学校をさぼっているという後ろめたさから、条件反射で「すみません!」と謝ってしまった。すると、後ろから明るい笑い声が起こった。  ……!  慌てて立ち上がり後ろを振り返ると、そこにいたのはセーラー服だった。 「高森佳絵、さん」  彼女は呆れたような表情をしていたが、しかし、優しげに微笑んでくれていた。ずっと無表情の彼女しか見ていなかったから、それはとても新鮮で改めて見惚れてしまう。  やっぱり、美人だな。 「何、謝ってんの?」  佳絵は微笑みの微粒子が残るくちびるで僕に言った。 「え? あ、学校、さぼっているから、つい……」  そして、てへへと照れ笑いをしてしまう。が、すぐに笑ってしまったことを後悔した。 「あ、ごめん!」 「は? 何が?」 「いや、だって……その、君、笑われるの、嫌なんだろ? だから、ほら、初めて会った時、馬鹿じゃないって……あれ? 違った?」  おたおたしている僕の様子を呆気にとられて見ていた彼女は、一瞬の間の後、不意に吹き出し、笑い出した。文字通り、爆笑だ。  年頃の女のコの笑い方じゃないぞ。  そう思いながらも、僕もつられて笑っていた。
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