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アニカが出て行った窓を、茫然と見ていた。
どうやら自分はまた、何かやってしまったらしい。ヴァルターにしてはさして重要ではないことが、アニカにとってはとても大切なことだったのだ。
ズキリと胸が痛んだ。
最近、やっと少しずつ笑顔を見せてくれるようになったのに、彼女はまた笑わなくなってしまうだろう。
それどころか、ヴァルターたちを見捨てて、街を出て行くに違いない。
(……街を出ていく?)
そしたらもう、アニカには会えない。
もしかしたら五十年後にあの屋敷の前で会えるかもしれないが、そんな長い時間待つなど考えただけで気が遠くなった。
(追いかけなければ。……けれど、なんと言えばいい?)
騙していたことに変わりはない。
もし本当のことを言っていたら、こうはならなかっただろうか。いや、そしたら彼女は、ヴァルターたちに振り向きさえしなかっただろう。
一体、どうすればよかったのか。
ヴァルターはアニカが出て行った窓に足をかけて、気配を辿りながら屋根を移動した。同族はそこにいるだけで強力な気配を発する。離れ過ぎない限りは、気配を感じ取れた。けれど、アニカの気配もだいぶん薄れている。かなり遠くにいるようだ。
それでも神経を集中させて、あとを追った。
まだなんと言えばいいのか決めかねているが、今追わなければ失ってしまうことだけは、よくわかった。
街外れまでやってきて、やっとアニカの姿を確認できた。街を見下ろす丘のうえで、じっと立っている。
それがヴァルターには待っていてくれたように思えて、少しだけ嬉しくなった。
そうだ、もしかしたら少し癇癪を起しただけかもしれない。本気で出て行くなんて、考えていないのかも。
けれど、近づいてアニカが振り向いた瞬間、そんな仄かな期待は崩れ去った。
完全な無表情でヴァルターを見たアニカの瞳には、すでにこの街はもう映っていないようだった。彼女は、今後のことを考えている。
ヴァルターのことなど、微塵も記憶に留めるつもりはないのだ。
そう察すると同時に、カッと熱が上がってきた。
全身が燃えるように熱くなり、掴みかかろうと思ったが、なんの感情もないアニカの表情を見るなり、冷水を浴びせられたかのように体中が一気に覚めた。
「戻りましょう、アニカ」
そう言えば、アニカはさっと目を反らす。
「利用されるなんて、まっぴらごめんなの」
「騙していたことは謝ります。私に思慮が足りなかった。申し訳なく思っています。だから」
「わかってる」
アニカは簡潔に言った。
「騙されたあたしが馬鹿だったの。だから、ヴァルターが謝ることなんてない。目的があったんだから、狡猾になって当然だわ」
謝ることなんてない、と言いながらも、アニカの声は無感情だ。怒っているのだろう。けれど、初めて出会ったときの声音もこんな無感情だったことに思い至り、ヴァルターの胸は重くなる。
せっかく仲良くなれそうだったのに。
せっかく少しずつ歩み寄れていたのに。
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