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到底相手に聞こえるはずもない小声だったが、人影は唯一見えていた口元に笑みを浮かべた。
「こんにちは」
穏やかな、まだ若い男の声だ。
「なにか用? ……さっきの追っ手も、あんたの差し金?」
「私の、ではなく。私のあるじの、でしょうか」
「あんたのあるじ?」
ふいに、人影が身を屈めた。そう思った瞬間、すさまじい跳躍を見せて、アニカのすぐ目の前に降り立った。反射的に身構えるアニカに、青年はにっこり笑って全身に纏っていた布を取った。
現れたのは、ぞっとする美貌だった。もっとも美しいと言われている美醜の女神、アリーニャでも、ここまで美しくはないだろう。
一瞬で、人に非ざるものだと理解できた。柔和に細められた瞳といい、真紅の薔薇で染めたような唇といい、人間にはここまで整った造形は作れまい。
やはり、歳は若いようだ。二十歳ほどだろうか。何もかもが完璧な容姿をした青年は、風に靡く長い白髪を手で押さえた。その手首には、アニカがはめているものと同じ、細かな細工の施された金の腕輪がはめられている。
美貌よりも、アニカはその腕輪に釘づけになった。
(やっぱり同族か)
警戒を露わに睨みつけると、青年の表情が苦笑を交えたものへと変わる。
「あなたを、お迎えにあがりました」
「どうして」
「理由は我があるじがお伝えするでしょう」
「だから、意味もわからずついてこいって? ……冗談でしょう。はいそうですか、って行くわけないじゃない」
当たり前のことを言ったアニカに、青年は驚いたように目を瞬かせた。
「駄目ですか」
「あんたなら、はいはいってついていくわけ?」
青年は考えるように顎に手を置いて、僅かばかり瞠目した。
「ですが、ここは来ていただかないと。お願いします」
「……なんであたしなの? コレだから?」
そう言って、金の腕輪を掲げてみせた。
これまで、金の腕輪が理由で追われたことなど一度もなかったアニカにとっては、珍しい客人だった。けれど、金の腕輪を持つ人間などそうそう見つけらるわけでもないし、探す理由もわからない。警戒するべきだ。
「もちろん、その通りです。この街でずっと、あなたのような腕輪の所有者がくるのを待っていました。……決して酷い真似などいたしませんから、来ていただけませんか」
「嫌よ」
「……そうですか」
言い終えな否や、青年がおもむろに腕を伸ばしてきた。二の腕を掴まれて、逃げるに逃げられなくなる。
蹴りつけようと足を振り上げた瞬間、ふいに身体が重くなった。
ぎょっとしたときには、遅かった。
(結界!)
ざっと辺りを見回せば、離れた場所に一風変わった詰襟服を着た男が二人、距離を置いて立っている。
対面することなどほとんどないので忘れかけていたが、この世には法術師と呼ぶ人間たちがいる。
彼らは不思議な力を操り、あらゆる異形を封印することができる。ロイを地下に封じていた札も、その類だ。
重くなった身体を堪えきれず、屋根に膝をつく。荒い息をあげて顔をあげれば、目の前にいた青年もまた、苦しげに膝をついた。
けれど、握った二の腕を離す気配はない。
「……あんた、ばか?」
「……あなたを連れていくことが、目的ですから」
先に意識を飛ばしたのは、青年のほうだった。汗が浮かぶ額をアニカの膝へ乗せるようにして身体を折り曲げた。
すぐにアニカも限界がくる。
朦朧とする意識のなか、かろうじて掴まれた腕だけは振り払ったものの、もう立つこともできない。
(……駄目、もう)
ぷつん、とアニカの意識は深い深い場所へ落ちていった。
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