序章

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序章

 若い娘の悲鳴が屋敷内に響き渡った。  アニカはひっと喉まででかかった声を飲み込み、地下へ向かう通路を逃げる。  もう、正面玄関や裏口は抑えられているだろう。だが、地下の避難通路からなら、まだ逃げられるはずだ。  走るたび、アニカの長い黒髪が腰の辺りで跳ねる。荒い息を肩で繰り返しながら、勢いよく階段を下っていると、ふいに銃声が轟いた。ほぼ同時に男の悲愴に満ちた悲鳴が耳を打つ。さっきの女の悲鳴も、今度の男の悲鳴も、アニカには聞き覚えのある声だった。  混乱する頭では名前まで思い出せないものの、屋敷の使用人の誰かだろうことはすぐに見当がついた。  悲鳴は近かった。  追っ手はもうすぐそこまで近づいている。  アニカは勢いよく一階の広間へと転がり込んだ。地下への通路は隠してある。この部屋で間違いはないはずだが、と部屋の隅に駆け寄り、絨毯をめくりあげて床をまさぐった。うっすら割れ目を見つけて、取っ手を引っ張り出す。  また銃声が聞こえた。 (なんで、こんな目に合わなきゃいけないの!)  恐怖に震える手を落ち着かせながら、重い軋み音をあげるドアを引っ張りあげる。現れた階段を、滑り込むようにして降りた。かび臭い匂いに一瞬顔をしかめたが、命がかかっているのだから戻っている暇などない。 (たしか、こっちにある、はず)  一度だけ父から説明された逃避通路の方向を思い出しながら、薄暗い地下道を歩いた。どうやら壁は土壁で、足元にも大小さまざまな石が転がっている。そしてなぜか、うっすらと寒い。  進むにつれて、視界が聞かなくなってきた。  薄暗いのを通り越して、完全な闇になろうとしている。  入ってきた四角い入口からは陽光が漏れているが、それだけでは到底地下通路の奥までは照らしきれていなかった。 (でも、逃げないと。……逃げ切れるのかな、本当に)  このまま地下を進んでも、迷って餓死するだけではないのか。  そんな思いが過り、小さく身震いした、そのとき。 ふわ、と突然、頭上で明かりが灯った。 驚いて顔をあげれば、土壁に設えた蝋燭に火が灯っている。 (え――)  ぎょっとしているあいだに、すぐ隣の燭台にも火が灯った。それを皮切りに、さらに隣、その隣と、次々に蝋燭の火が壁沿いに灯っていく。  あっという間に橙色の明かりで辺りを埋め尽くした炎に、アニカは呆然としていた。  そして、気づく。 (ここ、出口じゃ、ない)  蝋燭の炎が映し出したのは、出口へ向かう通路ではなかった。アニカの視線の先、通路の最奥には鉄の格子があるだけだ。  おそらく、牢屋だろう、と検討をつける。  貴族の屋敷には、地下に必ず牢屋が存在する。昔、まだ法が危うかった時代、貴族は貴族の権限をもって罪人を処罰できた。だから、独房というものを個人で所有していたのだ。  きっと、ここにある牢屋もその類が残っているのだろう。  そう思った瞬間、背後から物音がした。どうやら追っ手が地下に逃げ込んだアニカに気づいたらしい。  逃げ場はないとわかりながらも、アニカは最奥まで突き進んだ。  そこでふと、格子に一枚の札が貼ってあることに気づく。難しい異国の字で何か書かれているため、読めない。ただ、古めかしい札にしては、文字はにじむことなく力強い存在感を放っていることが少しだけ異様に思えた。  けれど、今はそんなことどうでもよかった。  もう逃げ場はない。 (逃げ道って、言ったのに)  かつてアニカにあやふやな説明した父を恨んだ。  アニカが部屋を間違えただけな気もするが、追われている身でどうして正確な判断ができるだろう。  雑多に階段を下りてくる足音がした。  ひっ、と悲鳴をあげて、小さく縮こまる。
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