第二章

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第二章

 幻覚と現実の狭間、高層ビル群が立て続けに崩壊しているのが見える。心に突き刺さるような負の感情とつま先から血が引いていく感覚がないのでそれは現実の出来事ではないことがわかる。その惨事を彼の隣で眉一つ動かさずにグラスにハイビスカスを落としたマイタイを舐めながら俯瞰している女がいる。三葉の写真どころか、つい数年前までは彼の人生にさまざまな光と影を落とし、終焉まで関わる可能性のあった女だ。  陽だまりの笑顔と空っ風の無理難題を彼に課し続けた女。処女の恥じらいと娼婦の妖しさで彼を一目惚れさせた女。絹の肌とマイナス百度の皮肉で彼を混乱させた女。上質なチーズの子宮とテンダロインステーキの肉体で彼を篭絡した女。青空の寛大さと理由のない驟雨で彼を錯乱させた女。古代の神秘と現代の合理で彼の魂を奪い去った女。朝に生まれ夜に死に彼を悲嘆に暮れさせた女。悲しみのように美しいのに他人の悲しみには徹底的に無関心な女。  これが現実の出来事であっても悲しんだりはしないんだろうな。  彼は、全てをあきらめたように微笑んだ。  強烈な喉の渇きで目が覚めた。  快適なエアコンの冷気がまだ熱の下がらない肌に心地よい。晩秋のこんな時期に、熱に魘され、現実と非現実とが混沌としながら混在し、何の断りもなく、世界を都合のいいようにいじくりまわされていると言ってもエアコンでは時系列まで辻褄が合わなくなる。まるでアンへレスかサダルストリートあたりの、すなわち、熱帯の場末のホテルにでもいるようだ。しかも、この体の熱さは発熱ではなく、寝起きにまだアルコールが抜けきらない、足元が地上から五ミリほど浮ついたあのフワフワした状態だ。確かにアルコールは入っているようだ。 それにしても、いつの間に? 「天ちゃん。気が付いた?」  チェジウのようにおばさんくさい声。  あの頃、冗談でよく「お前の声も田中美里に吹き替えてもらえ」って軽口叩いていたのが懐かしい。 本当は、この女の魔性に身も心もすっかりいかれていたくせに、安目を売りたくないものだから、怯えながら強気を装ったものだ。だとしたら「熱帯の場末のホテル」は当たらずとも遠からず。ここは数年前まで居を構えていたバンコクエカマイソイパシーの安アパートの角部屋ということになる。ベッドの下に転がっている半分以上空いたリージェンシーのボトルと机の上の食い散らかしたヤムウンセンとガイオップの皿がここが日本ではないことを雄弁に物語っている。  そう。あの頃……  人にはそれぞれ、「あの頃」と「あの街」があるものだが、彼にとっての「あの頃」とはまさに今、ここのことだ。  彼は、少し鈍痛のする頭を二三度振り動かし、夢とも幻とも覚束ないその女を直視し、欠伸交じりの声で言った。 「ビルが崩壊するのを見ていた。真矢ちゃんも隣で見てたよ」 「ふーん。また悪い夢を見てたの?いつも言ってるでしょ?睡眠障害は気の病。ジムでも通って鍛えたらいいのに。そうすればあっちのほうも強くなるのに。だいたい、その気にさせといて勝手に酔っ払って、勝手に寝られちゃう身にもなってよね」  真矢は彼の睡眠障害と床における不甲斐なさを毎朝、冷水摩擦とベンチプレスでもすれば治ってしまうものだと思っているが、厳戒令が敷かれ、国民党の秘密警察が暗躍していた彼の幼少の頃の台湾で夜中に何度も家に踏み込まれ、大好きな祖父を「親日的だ」などとふざけた理由で連行され、厳しい尋問を受けていたことへのトラウマが原因の睡眠障害がそんな単純な筋トレで解決できるのならば、一切の悩みは抱えず、健康闊達で、もっと楽に生きていくことができるはずだ。  何もわかっちゃいない。  事情は複雑なのだ。  彼は、それには答えず、ふて腐れていながらも懐かしい女と部屋に無言で帰還を告げながら、あの何度もビールや食材を取り出したパクチーの匂いがしみた冷蔵庫を開け、シンハウォーターのペットボトルに入れた自動販売機の一リットル一バーツの水を取り出して飲み干す。 そして、コップに移して飲まないことを真矢になじられる。これも懐かしい感覚。もっと真綿で首を絞められるようにこの不潔さを責められたい。嫌われたくないので真矢の前でマゾヒストになることを何度堪えたことだろう。 「何よ?ニヤニヤして気持ち悪い」 「君にはわからないよ」 「天ちゃんは秘密が多いっ!」 「真矢ちゃんは全てを知りたがるけど、そこにきっと幸せはないよ」 「それでも知りたいって言ったら?」 ――僕のストーリーは僕のものだ。 そう思ったが、それには答えず、真矢を後ろから抱きしめる。意味がない答えや約束よりも感触と熱があったほうがいい。  体もお金も使わなくても得れる幸福。  彼は気付くのが少しばかり遅すぎたらしい。  まずくて高いばかりのボジョレーヌーボーが二十年経てばひとかどのワインになるように、想い出も寝かせれば熟成されるばかりか、時の流れによって、「あの頃」は幸福で光り輝いていた時代へと変貌してしまうものなのかもしれない。そして、その黄金時代が何か目に見えない力や事由で目の前で再現されている。 「でも、なんかこういうのっていいね」 「そうでもないけど」 「寝顔見られちゃったな」 「眉間に皺寄せて寝る人って珍しい」 「怖い夢見てたからね」 「もうめんどくさい」 「めんどくさい」の言葉通りのほとんど義理のキス。  知り尽くしている唇の柔らかさにメンソールのタバコと柑橘系のマウスウォッシュが合わさった蜜とは程遠いチープな味。懐かしくて涙が落ちる。子供の頃のあだ名で呼ばれたようなこの感覚を他人に説明するのは一寸、難しい。況してや、真矢の親ですら知らない、それも遠い昔に失った禁断の味。  こんなにも五感は明瞭なのに、深海の中の出来事のよう。壁に貼った国王陛下の凛々しい横顔が二重に三重に揺れている。武井咲を一重にしたような真矢の美しい顔も揺れている。これが現実の出来事ではないことくらい、未来が変わることがないことくらいわかってはいるが、それに終わりがあることなど考えたくもないほど、彼は、今、常しえに満たされている。たとえ巧妙に仕組まれた罠であったとしても真矢の手で元居た地獄に突き落として欲しいと思う。  但し、満たされてはいるが、詰めが甘いと言うべきか、悲しむべきと言うべきか、潤うのは心ばかりで、肉体は眠り続けている。舌を絡ませるばかりの子供っぽい礼儀知らずな遊戯に甘んじなければいけないのが、彼が才能がありながらも大成できない所以なのか。真矢の言うとおり、筋トレでもすれば発情した真矢を何時間でも泣かせ続けられるような強靭な肉体を手に入れることができるのだろうか。いつも理想ばかりが虹の彼方で、夢も希望も中折れだ。  真矢の力強い目が彼を捉える。  言葉はなくても何が言いたいのかは、悲しいくらいにわかっている。  それは、別離に一歩近づいただけの孤独なキスであったと言うことだ。 戻れてもやり直せないことは、戻りたいのにやり直せないことよりも切ない。  それは、光り輝いていた時代へのノスタルジーとは違う。  声にはならない「お前を離さない」が2ちゃんねらーのように彼を嘲る中を満たされながら堕ちてゆく。  現実へと。
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