先に口説いたのはあなたなのに

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「だって、彼は私の血を分けた実の息子ですから。」 「息子ねえ・・・。ええええっつ、嘘。信じられない。」  私は、絶句した。椅子から立ち上がった。そんな重要な秘密をサラリと言うマスターって、どういう神経してんのよと疑いたくなる。 「お疑いになるのはごもっともだと思います。ご説明したいのですが、お時間は大丈夫ですか。」 「うん。全然、大丈夫。」  今日は、アパートに帰って、一人寂しくやけ酒を飲むつもりだったから、時間は全然大丈夫。 「それでは、お話ししましょう。私、こう見えて若い頃は名古屋で随分ヤンチャしてまして、仲間とバンドを組んで、プロを目指していました。ひょんなことから酔っ払いにからまれていた栄のキャバ嬢を助けて、それが縁でお付き合いを始めました。ある時、東京の芸能事務所の方に声をかけられ、喜び勇んで東京にプロモーションビデオなるものを作りに行きました。もうすぐプロになれると夢見た私たちに下された現実は、メインボーカルが他のバンドと組んで華々しくデビューという厳しいものでした。」 「何、それっ。酷い。」 「はい、私はベースをやっていたんですが、ギターとドラムとキーボードの仲間とともに切り捨てられました。華がないとの一言でね。我田引水、自画自賛になりますが、私たちのバンドのボーカルはルックスもファッションセンスも声も歌唱力も最高の歌姫でした。性格はちょっとドSでしたが、私たちにとって文字通り、女神でした。その女神に捨てられた私たちの落胆は富士山の頂上から一気に日本海溝の最深部に突き落とされたぐらいでした。」 「あのう、たとえがよくわかりません。」  富士山の高さ3776mは覚えているが、日本海溝の存在を知らないもんね。ましてや、最深部って、どんだけ~。 「すみません。想像できないでしょうね。話を進めます。それでも男のプライド、意地にかけて、プロになることをあきらめきれず、ギターがボーカルを兼ねて頑張りましたが、一人抜け、二人抜け、そして気づけば私一人、寒い冬、雪が降る中、路上ライブをやっていたんですね。」 「マスター、きついよ。寂しいよ~。」  これは、想像できた。私まで、悲しくなった。 「そう、そんな寂しく、寒さに震え、お腹をすかせて死にそうになっていた私に優しく声をかけてくれて、ラーメンをおごってくれた美しいご婦人がいました。そう、この喫茶店のオーナーです。あの時食べた豚骨と魚介のwスープのラーメンの温かさ、美味しさは今でも忘れられません。」 「マスター、神様って本当にいるんだね。」 「私もそう思いました。これは神様のお導きと自分に言い聞かせるように、プロになることをあきらめ、このお店で働き始めました。」  深い~と感動したものの、意地悪な質問をしたくなる私だった。
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