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「オーナーが、私が愛するオーナーが・・・・」
「オーナーが、どうしたの。不治の病で・・・。」
「パリでパテシイェの修行をしたいから、後は宜しくって、出かけてしまったのです。子供のころからの夢だったそうで、女四十路の決断、桜吹雪の中の旅立ちでした。」
私は、カウンターでゴツンと頭をぶつけてしまった。ハラハラした自分を、笑ってしまうよ。
「オーナーに留守を任され、一生懸命、この喫茶店を守って、十数年、そんなある日のことです。テレビのある番組で海外で頑張っている日本人を探して、応援するコーナーがあり、オーナーが取材されたのです。当然、このお店も取材され、恥ずかしながら私もテレビに顔を出すことになったのでした。」
「ふ~ん、良かったね。」
話が見えなくて、退屈になってきた私を見て、マスターがニヤリと笑う。
「テレビを見たと言って、一人の高校生が私を訪ねてきたのです。そう、お待たせしました。若き日の彼です。一緒にテレビを見ていた母親が急に騒ぎ出したそうです。泣いているのか、笑っているのか、怒っているのか、わからないくらい興奮していたそうで、彼がその理由を尋ねても、一言も語らない。その代わり、若き日の母親と私が仲良く二人で写っている写真を渡し、大学受験の下見も兼ねて、私に会って来いと命令したそうです。」
「それで、どうなったの。」
「彼から、母親が若い頃付き合っていた男性が、バンドをやっていて、プロになると東京に出て行ったまま、帰らなかった。待てど暮らせど連絡もないまま、妊娠していることに気づき、散々迷った挙句、一人で産んで育てようと決心した。もちろん、仲間のキャバ嬢や同じアパートに住んでいる夜の蝶の女性たちに助けられて、小さい彼を育てたと。そんな苦労話を聞かされました。私、流れる涙を止めることができませんでした。淡路島の産地直送の玉ねぎの祟りとか、花粉症と黄砂のコラボとか、誤魔化すことは無理でした。」
「それで、親子の名乗りを上げたの。」
私は、カウンターに両手を着いて、マスターに詰め寄った。
「それは、できませんでした。彼の母親が許さないから。もっとも、彼は、体に流れる血で私が父親であることを察したでしょうが、そこは賢い。口には出しませんでした。」
「確かに彼らしいと言えば、彼らしいかな。」
その賢さは嫌いじゃないけど、私が彼に物足りないと思っているところだ。
私ならズバリ聞く。容赦しない。たとえぶつかっても、そのほうがお互いスッキリすると思うんだけどな。
私の心を読んだかのように、マスターは小さく笑った。
「彼は、無事大学に入学して、東京生活をエンジョイし始めました。この店の常連客となり、新しい彼女は必ず連れてくるようになりました。就職しても、それは変わりません。」
「・・・・・・・・」
「どうしましたか。」
急に黙り込んだ私をマスターは心配してくれるが、私だって人の心はわかるつもりだ。彼の母親と彼とマスター、この上もなく不器用で強情で、それでいてお互いのことが気になってしょうがない関係に、私は寧ろイライラする。我慢できない派である。
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