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いや、違う。
俺はあの時、自分の衰えを感じていた。ボクサーというアスリートであった経歴を持つ自分はなおのこと、引退し年を取り、五十才という人生の節目のような年に、感慨深い思いと共に肉体が痩せ衰えていくことに恐怖を感じた。
歯に物が詰まるのは、老化で歯茎が露出するからだと言う。使っている枕が臭いと実日子に言われた。薄くなった髪を隠す為に帽子を被り、ボクサー時代に痛めた足の古傷が疼いて足をかばうので、姿勢が悪くなり猫背にもなった。腕や足の筋肉はスポーツクラブのウェイトトレーニングで鍛え、見た目は以前と変わらないが、体力の衰えは否めない。すぐ息が上がり、疲れやすくなった。
もう見てくれなんて、どうでもいいような気がするが、なんだか男としての自分がこのまま終わって行くようで寂しかった。
そして俺は、まだまだいけるということを、自分自身に証明したくなった。
俺は昔お世話になったボクシングジムに顔を出した。昔と違い今は多くの女性が、ダイエットの為にボクササイズをしに、ボクシングジムに通っていると言う。硬派だと思っていた俺が通っていたジムも、週に何度かは女性向けのプログラムを作っていた。
マットの上でコーチとスパーリングする若い女性がいる。その肌や筋肉は活き活きとしていて、滴り落ちる汗を弾いていた。
演習プログラムが終わると、スパーリングをしていた女性がリングから降り、以前から俺のファンだと言って握手を求めてきた。
壁に面した所にあるロッカーから、女性がペンとノートを持って来る。サインを頼まれ書きながら、俺はすかさずこの後予定ある?と彼女に聞いたのだった。
何度か繰り返した女性との関係は、実日子にバレてしまった。ホテルで会計したレシートを、貰う必要もないのにいつもの習慣でお釣りと一緒にポケットに仕舞い、そのまま家に帰ってしまったのだ。悪いことはできない。 そのことを思い出すと、いつも苦い思いに駆られる。
あの時あんなことをしなければという思いは、俺に強迫観念を植え付け、しばらくは高額な買い物をしてもレシートを受け取ることが出来なかった。
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