蛇になった男

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川崎は着替えを済ませロッカーに鍵を差し込み、出てきた百円玉を小銭入れにしまう。くたびれた皮の小銭入れは、何度俺のその動作に付き合わされて来ただろうか、茶色い塗料が剥げて皮本来の色が下からのぞいている。川崎は、お疲れさんと、心の中で呟き労をねぎらった。 それから川崎は、分厚く柔らかい鞣し革の感触を確かめるように手の中で握り返し、小銭入れをスポーツバックの中に入れた。 蒸し暑い更衣室を出ると、ロビーの脇にガラス張りの喫煙室がある。数人の男たちが煙草を吸っているのが見えた。煙が充満し、いかにも体に悪そうなその場所に、愛煙家はオアシスを求めて歩く旅人のように吸い寄せられて行く。 川崎も一服してから帰ろうと、受付の前を通りロビーを歩く。すると、今度は男性に呼び止められた。 「川崎さん」 実日子の現在の夫の棚田だった。棚田はひょろっと細長い体つきの洒落た感じの男で、カフェを経営していた。どう見てもインドア派だったが、実日子の影響でスポーツクラブに通いだしたと、以前棚田本人から聞いたことがあった。 棚田の経営するカフェはモダンで洒落ていた。彼は長年飲食業でコックとして働いたのち、自分でカフェを開いた。実直で物静かな男だった。  離婚後数年して、実日子が自分と正反対のようなこの生真面目な男と結婚したことに、川崎は不思議な気持ちでいた。川崎は彼女の知らない部分を発見したような気持ちになったが、同時に自分と正反対のこの男に反感を持った。  だいたい洒落たカフェなんて、あいつは行くのだろうか。俺とは寿司屋や焼肉屋くらいしか行かなかったのに。ああ、そうか全部頑固な俺の好みに合わせてくれてたのか。離婚の原因は浮気だけじゃないのかもしれない。このスポーツクラブのことと言い、実日子は棚田と良い影響を与えあっているのだろう。  川崎は実日子が自分となし得なかった結婚生活を棚田と送っていることに、ため息が溢れそうになるのを堪えた。 スポーツクラブの明る過ぎる照明が、棚田のクリクリとした天然パーマの輪郭を際立たせている。そこにキラキラと光る白髪が見えた。棚田は実日子と結衣と三人でこれからも、共に年を重ねるのだなと思う。 二人がもう自分の手の届かない所にいるのだと言うことに、川崎は今更ながら気づかされる。川崎はそんな棚田に憎まれ口を叩きたくなった。
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