蛇になった男

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グレーのスーツに身を包んだビジネスマンが、皮のバックから会員証を取り出しロビーにいる受付の男に見せる。その後に入ってきたTシャツにジーンズ姿の若い男は、近くにあるお坊ちゃん学校と目される私大の学生だった。 目が合うとみんな私に会釈する。私はこの閑静な住宅街にあるスポーツクラブの主なのだと、川崎に振られた悔しさに打ちひしがれながら、女は自分にそう言い聞かせた。 すべてあなたがいけないのよ。女は左手を目の前に掲げ、今は結婚指輪のはまっていない薬指を見る。幸せ太りだったのだろうか、主人が生きていた頃は、指の肉に埋もれ結婚指輪が抜けなかった。 指輪のはまっていた指は、私がどれだけ亡くなった主人を愛していたかを如実に表していた。主人が亡くなってから十年が経つ。気が付くと指輪がするっと指から抜け落ちるようになった。指輪が抜け落ちるほど、主人の死後私は食事もろくに取ることが出来ず、痩せたのだ。 そこだけ日焼けせずに白く残った指輪の跡は、結婚生活の名残りのように感じずにはいられなかった。しかし、私はもう充分彼のことを愛し尽くした。 もう亡くなって十年が経つのだ。私は心機一転、第二の人生を楽しもうと指輪を箪笥に仕舞い、指輪の跡も無くしてしまおうと左手を日光に当て日焼けさせた。しかし、心を切り替えるつもりでやったそれは、私の心に逆の効果をもたらした。 例えば、リニューアルオープンした駅ビル。都内のデパ地下のように立派に生まれ変わった店内で、ここにはかつてよく買い物をした老舗の和菓子屋さんがあったはずだと思い出す。その同じ場所には今流行りのスイーツのお店があり、美しくモダンなはずの店内が急に寒々しく感じる。そんな感じ。 実際に主人が亡くなった瞬間より遥かに強くもう彼はこの世にいなくて、私もそれが当たり前の日常をおくれるようになったということに、衝撃を受けているのかもしれない。 日焼けをして指輪の跡がなくなった左手を見ると、私は圧倒的な喪失感に打ちのめされるのだった。
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