蛇になった男

30/39
前へ
/39ページ
次へ
「ねぇ、見て。あいちゃん可愛い。欠伸してる。産まれて来てくれてありがとう」 若い母親の会話は夫から、赤ちゃんに話しかけるものに変わっていた。それから、泣いてもいない赤ちゃんを、あやすように上下に揺り動かす。 私は当て付けだと思った。ワイドショーにたった一回出たことが、そんなに特別なことなのだろうか?嫉妬を煽るほど、私はセレブ妻ぶっていたと言うのだろうか? 私はカッとなり、赤ちゃんもろとも若いお母さんをホームの下に突き落としてやろうかと思った。その時の私には、本当にそうすることだってわけのない事のように思えた。 「実日子、実日子」 隣にいた匡臣さんに名前を呼ばれ、私は自分を取り戻す。この目の前の母子をホームに落としたところで、犯罪者になるだけだ。いくら憎くても、二人が電車に轢かれるところを見たいわけではない。そう考え、私は冷静さを取り戻したのだった。 その後電車が来たが、私たちはその電車には乗らず、赤ちゃん連れの若い夫婦が電車に乗り込むのを見送って次の電車に乗った。 匡臣さん曰く、その時の若いお母さんを見る私の周りには、どす黒い靄が充満して渦を巻いていたのだという。 本当だろうか?そんな風に、人の怒りや憎悪を可視化できる人がいるのだろうか。まぁ、幽霊や人のオーラが見える人がいるのだから、彼が私の憎悪を黒い靄のように見えたとしても不思議はないのかもしれなかったが。
/39ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加