02 兄と周

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 その夜、俺が眠れるわけもなかった。  気づいたら小鳥が囀っており、朝日がカーテンの隙間から射し込んでいた。  兄は今日休みだったはずだ。もしかしたらいつもより遅い時間に朝御飯を食べるかもしれないが、いつも通り六時半に布団から這い出て顔を洗い、台所に行く。  兄が休みだと、いつも浮かれた気分になる。兄の予定がなければ少しは構ってもらえるからだ。  しかし今日はそうではない。  兄にどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。それどころかいつも通りのことすらいつも通りにできない。  冷蔵庫から卵を取り出そうとして卵を床に落とし、砂糖と塩を間違えると言う古典的なミスをし、しまいには自分の指も切って血が出た。  それでもなんとか卵焼きをつくり、サラダをつくり、ウィンナーを焼き、味噌汁をつくった。 「おはよう」  白ごはんをよそっているあいだに、兄が起きてきた。寝起きでもだらしなさが一切ない。周とは全然違う。 「おはよう、兄さん。朝御飯できてるよ」  兄は机に並べたそれらに視線をやる。 「ありがとう」  兄がそう言って横をすり抜ける間際、頭を撫でられることを期待した。期待してすぐ、違うと思った。頭を撫でてくれるのは周だ。兄ではない。  兄の後を追って自分も席につき、手を合わせる。  食事中、兄はあまり喋らないが、全く喋らないというわけではなかった。ぽつぽつと世間話や確認事項などを話して、俺とコミュニケーションをとってくれる。  今日は新聞の見出しになっていた最高裁判決の話を少ししただけで、他は何も話さなかった。  朝御飯を食べてしまうと、兄は食器を洗って部屋から出ようとした。 「兄さん、今日は何してるの」 「部屋で書類の整理をして、本を読む予定だが」  観たい映画があったのだが、一人でも構わないかと思い直して、「そっか」と呟く。 「分かった。お昼御飯と晩御飯は、いつもの時間に用意しておくね」 「ああ、助かる」  兄はそう言って居間を後にした。  いつもなら寂しく感じるのだが、今日は安心してしまう。自分でも動揺しているのが分かっているからだ。  その日はいつも以上に動いた。午前中は買い物に行き、昼食を作ってからは家の中と外を掃除した。風呂も隅々まで綺麗にし、時間になったら晩御飯の支度を始めた。動いているといい。ほとんど何も考えずに済む。 掃除しているときに周の部屋の前の廊下を通って、一瞬だけ周のことが気になった。今何しているんだろう。兄は部屋にいたから、一人でいることは確かだ。話しかけたら、話すことができるだろうか。  もちろん話しかけることなどなかった。俺はそれまで通り、その部屋には必要最低限しか近づかなかった。兄が家にいるときは、そうするべきだと思った。  晩御飯は、兄と一緒に食べた。夜にもなると俺の気持ちもだいぶ落ち着いており、料理で朝のようなミスをすることはなかった。  兄がお風呂に入った後、俺も湯船に浸かった。一日のうちで、それが一番ゆったりした時間だったかもしれない。昨晩眠っていないこともあって、温かい湯に浸かっていると急に眠気が襲ってきた。湯船の中で二時間ほど寝落ちて、起きたときには日付が変わる直前だった。  眠る支度を終えたとき、兄の部屋にはまだ明かりが点いていた。ノックして、「はい」と返事が返ってきたので部屋に入る。 「兄さん、俺もう寝るね。おやすみなさい」 「ああ、おやすみ」  兄は本から少しだけ目を離し、こちらを見てそう言った。  あの、と言い出そうとして、やっぱり言い出せなかった。兄の意識はもう本に持っていかれている。俺は静かに扉を閉める。  部屋に戻ると、一日中動き回ったからか、その日はなんとか眠りにつけた。
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