01 開かずの間

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 洗い物をしてお風呂に入り、洗濯物を干して、自室で参考書を開いて勉強していると、玄関から「ただいま」とかすかな声が聞こえた。立ち上がって玄関まで駆けていく。  時刻は九時半。今日は帰りが早い。 「兄さん、おかえり!」  いつになく機嫌がいい俺に、兄は眼鏡の奥の瞳を驚いたように少し丸めて、もう一度「ただいま」と言った。 「今日の晩御飯はカレーだよ」  居間に向かう兄の後ろをついて歩き、そう伝える。兄は特段気にかけた様子もなく「そうか」と答えた。  カレーを用意して風呂をあたためなおし、兄の前に座る。兄がスプーンでカレーを食べるのを見ながら、そわそわした。  話かけたいな。  そう思うけれど、疲れているのではないだろうかと思うとなかなか話しかけられない。  兄がじゃがいもを一口で食べきれなかったのを見て、俺はようやく「あ……」と言えた。 「じゃがいも大きかったかな?」 「いや、大丈夫だ」 「そう? ……あ、テレビ見る?」  話が途切れるのを恐れてついどうでもいいことを言ってしまった。 「瑞樹が見たければ点けていい」  兄はテレビの方を見もせずにそう答えた。  兄の気がそちらに逸れると嫌だし、兄はニュースしか好まないので点けなかった。 俺が話したいのはそんなことではないのだ。 ちらりと兄を見る。 「あのね、今日、高校最後のテスト返ってきたよ」  そう言うと、兄は一瞬俺を見た。 「どうだった?」 「自分では、今までで一番よかったって思うんだけど……」  食事中に出されても迷惑かと思ったが成績表を机に出す。  兄が静かにそれに目を通しているあいだ、心臓が止まりそうなほど煩く鳴った。値段を決められる前の商品のような気持ちになる。  褒めてもらえると期待して出したのに、兄の顔は思っていたように綻ばなかった。 「全部九十点代か」  それがどういう意味なのか、俺には分からなかった。誉め言葉なのか、足りないと言っているのか。 「順位は?」  兄が訊く。 「三位だった」  息が詰まるような思いで答える。  兄は口では何も言わなかったが、視線を下げた。  妙な間が空いて、兄が口を開く。 「あと少しだったな」  兄が言ってくれたのはそれだけで、それ以外に何もなかった。  半分分かっていたけれど、一瞬、頭を殴られたような強い衝撃が走った。  ――そうか、駄目だったか。  目の奥に悲しみが押し寄せてきたが、ぐっと堪えた。  よく考えれば、兄は自分よりずっと優秀で、こんな成績は見慣れているに違いなかった。それどころか、一番以外を取ったことがないのかもしれない。両親が生きていたとき、見本のように見せてくれた兄の答案は百点ばかりだったように思う。  そう思うと、この程度の成績で褒めてもらえるかもしれないと考えた自分が恥ずかしくなった。こんなもので褒めてもらおうなどと。  兄が意地悪で褒めないわけではないというのを、俺は重々承知している。兄は、兄自身が立派な人だから、仕方ないのだ。  それに、俺が両親の代わりを兄に求めすぎているのだということも分かっている。両親に褒めてもらいたかった分、愛されたかった分、認めてもらいたかった分、すべてを兄に求めている。  兄がカレーを食べ終わり、その皿を自分で洗うのをなんとなく見つめる。俺が洗うよと言っても、兄はいいと言った。  じゃあじゃあと水が流れる音がする。自分の仕事がないと、ここにいる価値がないような気がしてくる。  キュッと蛇口を締める音がして、それから兄が手を拭く。  風呂に行く兄の背中を見送って、俺も居間を後にした。
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