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スタコラさっさっさのさ、はご用心
ポケットにたらふく込めた小銭はあらかたこぼれたのか、もう残りわずかとなった。
振り返っても道中に小銭が転がってなどいないと見える、そして追ってくる下駄の音も聞こえない。
さすがに走り続けて、疲れがどっと出てきたようだ。
少し休むために隠れなければ。
江戸の街並み、妖怪の領域に潜りこんで休憩などまっぴらごめんだと思ったが、とにかく息を一つつき、喉を潤わせたかった。
息も絶え絶えで見つけたのは、小さな井戸だった。
江戸は水道が整備されていたという事実にこれほど感銘を覚えたことはなかった。
江戸時代万歳だ。
竹の柄のついた汲み桶でざぶりと水をすくい、ガブリと飲み干す。
喉から青いエネルギーのようなものを感じて、心臓へたまりどくどくと一気に全身に広まった。
それと同時にカラカラのプランターに水を上げたように汗がじっとり湧き出し、額に絡みついた天然パーマの前髪をかき分けた。
風が吹くと体中の汗がひやりと全身を意識させ、頭はクールに、そしてうるおいで全身が満たされて、なぜだか血管が浮きだち、さらにひと呼吸ごとに集中力がさえわたっていった。
さてどうする、これから。
まずはガリとの契約を果たさなければならない。
そうしなければ朝まで鬼ごっこになるだろうし、彼女の体への負担も相当なものだ。
それに、明日は大学の授業がある。しかも一限だ。
何としてでも早めに切り上げなければ、そしてケイちゃん先生に愛を伝えなければ…。
ガリとの契約を思い出す。
当初の計画では、綿密な調査を行った上での計画では、小銭をあの女の子に投げれば、妖怪は小銭を周りに囲まれて嬉しさのあまり、狂喜乱舞してパニクル(パニックになる)はずだと。
しかし、よく考えればあまりに浅はかな計画だ。
ガリ曰く大した妖怪ではないと断じでいたが、実際にリスクを背負って計画を実行するのは俺だ。
もっと計画を詰めておけばよかったのに、悔やんでも仕方がない、ガリだってあの妖怪と同じ類のものなのだから。
あの妖怪、小銭拾いは金に執着しているからこそ、お金持ちそうなお嬢様に憑りついたんだろうが、あそこまでのお嬢様は”小銭”はふつう持ち合わせない。
いや、普通のお嬢様ならお財布を持ちお買い物をあそばされるのかもしれないが、”金花沢”の生徒なのだ。
基本はお買い物なんざ下々のものがあらかじめ済ませて、仮に自分でお買い物するとしてもカードかお札で払うもんだろう。
そんな事情だからこそ、”小銭”に執着している妖怪にとっては不都合な真実で、作戦失敗ということだった。
とはいえ何らかの契約をして一度憑りついたら、なかなか離れられないのが妖怪との契約らしく、彼女の体を使って夜な夜な小銭を集めていた、そんな筋書きなのだろう。
まさか江戸時代の妖怪の知識に自動販売機の下を探る風習があるとは思わなかったが、コンビニで駄菓子を買って両替する知識はなかったらしい。
ガリは闇夜に紛れて待機していて、彼女がパニック状態になった瞬間に現れると言っていた。
常に俺と一緒にいたのでは、あまりの妖気の強さと大胆さに妖怪に勘付かれて逃げられてしまうと…。
つまりは妖怪をパニクラせればいいはず、しかし俺一人で。
できるのかわからない。
やっぱり思い直して朝まで待つか、そしてもう一度ガリと作戦を練り直して…。
あるいは、彼女を…。
思案のしどころだったが、迫りくる下駄の音がそれを許さなかった。
まるで時計の針のように一つ一つ音を刻みながら、俺の鼓動とリンクしていった。
よく考えれば、俺のことを小銭発生マシーンとでも思っているならばまだしも、大概の小銭を失った今俺を追ってくる理由はない。
古びた井戸のある家の土間に隠れながら、考えをめぐらす。
「ぎしっ」とちょっとした体の動きで家鳴りしてしまうこの時代の家屋に恨めしく思いつつも、息を殺し見つかるまいと願わざるをえない。
恐怖。
冷静であっても恐怖は打ち消すことはできない、恐怖を打ち消せるのは好奇心のみ。
どこかの落語家がそういっていたような、いないような。
ともかく、その理論を信じるならば、好奇心をもって接してみようではないか。
勇気を振り絞ってみよう。
正々堂々と話し合えば妖怪といえど納得してくれるのでは?と無理な考えをしてみる。
無理な考えは無理なのだか、つまりは無駄というのは少し早計だと思う。
無駄だからと言って無駄な挑戦をしなければ、何も行動に起こせまい。
”失敗は成功の母”この場合の父親が誰かは知らないが、妖怪に常識を持ち込んでもしょうがない。
そもそも奴らこそが常識外の存在なのだから。
考えは踊るされど進まず。
やはり近づいてきたか、コツリ、コツリと下駄の音が、ゆっくりとしたそのリズムを踏まえると相当体に負担があったらしい。
今ならば、戦えるかも。
いや、戦うって言ったってどうすれば…。
下駄はちょうど隠れた家で止まった。
静寂が訪れる。
静寂とは案外うるさいものらしい。
心臓の動きがやかましいくらいに、跳ねて跳ねて、息をのんで、殺して、歯を食いしばって。
意識という意識が、すべての神経が警報を鳴らしているのを感じた。
「青い、ふふ、そこですね。」
冷たい女の声が聞こえた。
ガツンと体ごと戸にぶつかる音がした。
体当たりのような格好で、腕を使わずに戸が引かれたのだろうか、柱、梁、戸棚、ふすま、ぎこちない音がいたるところから鳴り響いた。
「あなた飲みましたね、井戸の水。ふふふ。とってもいい色になっています。あなたならきっと、助けになってくれますね。」
そういいながら姿を現したのは、さっきの女の子ではなく、黒く闇に溶けた髪が腰元まで伸び、その闇でもはっきりとわかるくらい白い肌をした女だった。「さっきの女の子はどこにやった。」
「ふふふ、自分より人のことの方が心配?優しいのね。」
「うるせえ、質問に答えろ!」
「ここは私の世界、あの子は連れてこれないわ。でも不思議ね、あなたは入ってこれた。」
「お前が引き込んだんじゃないのか!」
「いいえ、あなたが入ってきたのよ。勝手にね。私がかつて生きた江戸に。
そもそもあの子は期待外れだったわ。体も弱いみたいだし、あなたが小銭を残してくれなきゃ、追いつけなかったわよ。でも、あなたに出会えたんだし、感謝しないとね。」
どうにも理解が追い付かなかった。
パニック状態にさせられたのは俺の方で、とにかく逃げたい一心で、しかしながら、すべてを見透かしたような女の白い笑顔に恐怖していた。
「これ。」
女が差し出す。
「落とし物よ。」
「え…。」
恐怖で気が付かなかったものの、女がふくらみのある着物の袂から出してきたのは俺の投げつけたはずの大量の小銭だった。
「落とし物を届けたお礼に、一つ私の困りごと聞いてくれる?聞くだけでいいわ。あなたの友達も一緒に。」
この女の、妖怪の目的がいよいよわからなくなった。
”江戸しぐさ”そんな言葉が浮かぶ、”見返り美人”そんな言葉もあった。
しかし、この妖怪の笑みを表す言葉はきっと現代にはなく…。
とにかく今しなければならないことは、強者ぶること。
弱みを見せないこと。
ビビっちゃなんねえ。
ガリが出てこれない今、少なくとも舐められないように。
「あの子を解放しろ。」
「解放しろって言ったって、そうしたら現世で自由に動けないじゃないの。
それにまだ彼女は契りを果たしてないわ。」
「俺がその契りを果たせばいいんだな。」
「あなた、なんでそんなに優しいの?でも、そうねえ、じゃあ、契りを交わしましょう。」
「ああ、いいぜ。」と答えるしかなかった。
それが妖怪との契約になろうとも…。
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