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寝るなら寝る。寝ないなら寝ない。
川が流れている。
細くうねりながら、その形を幾度も変えながら、左右に首を降るようにずっと流れていく。まるで、何かを探す蛇のように。白く、輝かしい流れが目の前にあるのだが、なぜか波音は聞こえてこない。聞こえてくるのは…。
「奥野!奥野!」
「へ、へぇ。」
「へえ、じゃない。江戸っ子じゃあるまいに。寝るのは結構だが、講義には参加するな。テストさえできがよければ、単位はくれてやる。だから、今日のところは、今すぐ出ていくか、居住まいを正すかのどちらかだな。」
「この声は、ケイちゃん先生。」
冷たい口調に、甘美のある優しさを感じる。
それはまるで、冷たいアイスにトッピングされたチョコチップのようで…。
「ちがう、姉崎慶子先生だ。なあ、五木くん。君は大変優秀だか、君のご友人はどうかね。いささか、失礼な態度。少人数クラスでわざわざ寝に来てクラスの士気を下げる厚かましさ。私には手に終えんのだけれども。」
そう振られた俺の隣に座る五木は、いつもの完璧な五木25度(あまりに美しくキレ上がった口角から由来している)のスマイルをケイちゃん先生に向け
た。
「そうは思うのですが、どうもこの男。今日は寝不足だけではなく、具合が悪そうでありまして。先ほど、寝言でこう申しておりました。ああ、ママのおっぱいが早くのみたいよ。じゅるり、じゅるり、よいしょ、よいしょ。」
「言うわけねえだろ!」
五木の侮辱の極致、名誉棄損の発言に思わず怒鳴らずにはいられない。
「と、こう言えばバッチリ目が覚めるくらいの元気さはあるみたいですが。」
たんたんとした口調で、見事に俺をたたき起こしたのだった。その手際にクラスから拍手が起きる。「どうも」と軽く手を挙げ、眉をくいっとあげた。
まるで、作戦通りと言わんばかりだ。
「ありがとう、五木君。じゃあ、講義に戻るぞ!」
麗しのケイちゃん先生の後ろ姿が黒板へ向かって遠ざかる。ったく、あれから眠ろうにも眠れなかったんだ。くそ。少しくらい寝かせてくれてもいいじゃないか。日の光を浴びてようやく安心できたのだ。呼吸をゆったりとし、頭が鈍く、麻痺するように瞼が落ちて。今日もスキニージーンズで、先生のお尻が、揺れて。再び浅い眠りへと入ってい…。
「そんなに眠いもんかい?羨ましいよ君が、欲求があるってことは、生を最も近く感じている証拠だからね。」
「そういうもんか?」
「もちろん、皮肉だよ。」
五木は得意の25度を浮かべ、コーヒーを飲んだ。
いまだ眠気は残っているが、どうにか1、2限を終え、大学校門前の喫茶店に来ていた。平日のほとんどはうちの大学生と、近くのオフィスで働くサラリーマンが客層を占めていて、少し時間が空いた時や小腹がすいたとき、学食の料理に飽きたときなんかには、よくお世話になっていた。
「今朝はまずかったと思うな、ケイちゃん先生きっと怒ってたと思うよ。」
五木は言う。
「ああ、でもあの冷たい声が俺は好きなんだ。」
カッコつけて前髪をかき上げるも、天パーじゃカッコもつかなかった。
「いや、真剣な話をしているんだよ。とても怒っているのが見てとれた」
「え?あのポーカーフェイスでか?いつも通りクールで、それこそポーカーで例えればクイーンのファイブカードみたいな、涼やかな顔してたぜ。」
五木はかぶりを振って、
「僕の家は女系一家だからさ。女性が怒った時のしぐさは顔よりもわかりやすいのを知っているよ。髪をかき上げるしぐさが多かっただろう?あれは自制心の表れと推測するね。」
「そんなこと言われたって、どうすりゃいいのさ。」
「授業を真面目に聞けばいいのさ。」
五木の悪い癖だ。いつもそうやって正論をかざす。”ロジックハラスメント”なる言葉をネットで聞いたことがある。”正論をもって相手を攻撃する”いや、正確に言えば、”相手が参ってしまうほどの正論を言うこと”という方が正しいのだろうか。なにせ悪意はない、だからこその五木25度だ。
「それで、昨日は何をして、夜更かししていたんだい?教えてくれたっていいじゃないか、君はなぞが多すぎる。学校の七不思議の内、五つを持っているんじゃないかってくらいにね。」
何をと問われても、なんと答えるか、これは大きな問題だった。仮に、昨日あったことだけ述べたとしよう。果たしてそれを純粋に信じてくれるのか?
それは、古事記を全く知らないものにスサノオとヤマタノオロチとの戦いを教えるようなものであり、まったくもって現代科学的アプローチからは程遠いものだった。ましてや、俺と妖怪との馴れ初めを語ろうものならば、それはそれは大河ドラマ数年分の、古事記を知らないものにイザナギとイザナミの馴れ初めを話すようなもんで、とにかく苦笑いと「そうなんだ、すごいねー」の言葉で片付けられてしまうけられてしまう危険性をもった悲しい物語なのだ。
まあ、俺の経験に伝説級の出来事なんて起こりはしないのだけれど。
「とにかくいろいろさ。」
「まったく君はいつも”とにかくいろいろ”だな。」
五木とは長い付き合いになるのだが、殊更妖怪に関してはいつもはぐらかしていた。彼自身とは仲が良く授業がある日はよくつるんでいるのだが、どうしても妖怪のことは言い出せなかった。信じてくれるなんて到底思えなかったからだ。その打ち明けられない胸のわだかまりを感じているのか、彼自身無理に聞き出そうとはせず、例の25度のまま接してくれるものの本当はどう思っているのだろうか。プライベートでは遊ぶことがないのも、おそらくこのぎくしゃくしたわだかまりが起因しているのだろうと思う。
「まあいいけどさ、困ったことは頼った方がいいぞ。きっと力になってくれる警察が。」
「警察かよ!」
「まあ、警察沙汰が怖かったら、親しい友人に、笑顔の素敵な友人に相談してみるこったな。ああ、最後にいいこと教えてあげよう。女性が髪の毛をまとめるように撫でたとき、それは好意を持って居るしぐささ。」
そう言って、不敵な笑みを浮かべ、彼は4限へと向かっていった。
さて、契りを交わした時間は18:00。
コーヒーのおかわりを頼んだ。
眠気は一向に消えないものの、武者震いなのか、恐怖余ってのことなのか、
寝ようなんて言う気概は俺からは失われていた。
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