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思い込みと思いやり
海の底、森の奥、街へ続くトンネル、寂れたガソリンスタンド、繁華街の裏通り、空き家ばかりの団地、そしてあなたの家の戸棚の奥にさえも闇は存在する。
闇とは人間の勝手で存在するものだ。
「暗くて、不安で、何も見えない」そんな印象を与えるものが、闇と呼ばれている。
人が意識するからこそ、闇がある。
ただそれはまがい物の闇。
人が意識できるものは、そもそも闇なんかではない。
本当の闇は、誰にも語られずにひっそりと迫っている。
「もうすぐ頃合いだ。いいか、さっき言った通りにうまくやれよ。
まずそうだが、腹が減ってたまらねえ。」
そう言うと、ガリは俺の体を離れて頭上をくるりと回り、するりと闇へと溶けていった。一気に体が軽くなり、気だるさだけが残った。いつもあの化け物、いや悪魔に、振り回されっぱなしの俺は、ため息をつく暇もなく目標ににらみを利かせた。
今日の目標は、ピンクのスカートに白のブラウス、あまりにも大きな男物のサンダル。いや、下駄か?スカートの右ひざあたりには金糸で鳩がユリを慈しむのように抱きしめるような刺繍がされていて、この地域に住むものなら誰でもお嬢様大学”金花沢大学付属”の生徒だとすぐにわかる。まだ春先の夜風が染みる季節にしてはあまりにも薄着で、なのに全く寒そうな気配も見せず、足をゆっくり、前から何かに引っ張られているように、マリオネットのように、やっとこ右足、左足の順に歩みを進めるのである。下駄とアスファルトが接地する度に、真っ黒の路地裏に弾かれるようにコツコツと足音が響いた。
彼女の前方にブーンとうなる自動販売機。
春の訪れを待っていた羽虫が我慢できず、わずかな光を頼りに集まっている。俺もどうしてものどが渇いたときには、贔屓にしているその当たりつき自販機。品ぞろえは、1.5流のメーカーだが、当たりつきのワクワク感がそのデメリットを見事にカバーして余りある。
ま、当たったことはないのだけれど。
「あれか?妖怪小銭拾い」そんな妖怪聞いてことはないが、それもすべてガリの受けうりだった。ガリの指示を思い出す。”彼女が立ち止まったら、ジャンパーのポケットに手を突っ込んで…。”やはりというべきか、まさかこんなにうまくいくとはというべきか、つまりその、ガリの計画通りだった。
「妖怪狩りも今回で8回目。」成功への確信を持たずにガリの計画通りことを進めるのも、1回目の大失敗を反省してのことだった。ガリを信じ切れなかった俺は、妖怪に真正面から立ち向かいものの見事に精神を犯された。幸運に恵まれて逃げることができたものの、それ以来ターゲットへの調査は欠かさなかった。とはいえ人間風情ができる調査などたかが知れている、だからガリが知りたいことを俺が調査し、具体的な計画はアイツが決めるのだった。当然さ、知識もなければ力もない、”ただ見える”だけなのだから。
彼女はゆっくり自動販売機の前で立ち止まると、お釣りのレバーを引いた。音はしない。すると今度は、手のひらでバンバンと自動販売機を叩くと、地面にひざまずき自動販売機のしたをゆっくり覗き込んだ。ひざ丈より長いスカートが地面に触れることも気にせず、セミロングの髪が地面についても構わず、手を自動販売機の下に入れてトントントンと探り始めた。
「くらえ!」ガリの指示通りに動いた。
ポケットの中にぎっしりと詰められた1円玉、5円玉、10円玉、50円玉の数々。1円玉は量増しのため、5円玉と10円玉は甲高い音を鳴らすために、50円玉は自動販売機の光を受けてキラキラと輝くように!全部で1000円分の小銭たち。さっきコンビニで駄菓子を買って、怪しいと思われながらも両替した俺の今月の残りの小遣いだ。右手で思いっきりつかむと、獲物を狙う猛獣のように丸まった体に向かって投げ込んだ。
「チャリンチャリーン」
超絶高音激安超音波完全版の小銭の音が炸裂した。
「金・金・金が鳴るなり法隆寺」
っと彼女は以外にも楽しそうに、笑いながら叫ぶようにダジャレを放った。
だ、ダジャレ!?なぜ?妖怪の発した完璧なる不完全なダジャレ。不思議なもので極限に張り詰めた緊張状態でのダジャレは「面白い」だの、「滑った」だの評価の対象ではない。恐怖。おそらく理解の追い付かないものへの恐怖。異形のもの、改めて思う。ツッコミの追いつかない奴らだ。
彼女の拍子抜けなダジャレをよそに、小銭の音に素早く反応した彼女のステップワークはすさまじかった。反復縦・斜め・横・片足飛びと名付けたくなるような、華麗な足さばきで小銭を拾っていく。一瞬あっけにとられたが、この異様っぷり、謎のダジャレっぷり、圧倒的な妖怪の仕業だった。このチャンスを逃すわけにはいかない、小銭を拾い終えないうちに次の行動をしなくては。
「行くぜ、第2球、ピッチャー振りかぶって」
そう宣言して、彼女の方を見た。自動販売機のあらゆるLEDが激しく明滅し、すべてのボタンが一斉に「ピッ!」と音を鳴らすと売り切れになった。当たりつき自動販売機のブラウスを止める上品なリボンとは裏腹に汚れが目立った腕のすそ、そして風になびくスカートと髪が揺れ、自動販売機の光に顔の左半面だけが見え、血走った目を見開いて口元が耳までさけている彼女と目が合ってしまった。目の下にはくま、赤く充血した目につられ真っ白な肌が朱に染まっていく。一瞬だったため、見間違いだったかもしれんが、彼女の目は小銭がはめ込んだように輝いていた。
「クッソ計画通りには行かなかったか。」
計画では小銭に夢中で気が付かないはずなのに…。
しばしにらみ合うが、来る!逃げねばならない!
考えるよりも第六感が足を自動販売機から遠ざけていた。
最初のころは妖怪と対峙するとビビッてへたり込んだものだが、今となっては妖怪相手に冷静に対応できるようになっていた。トラブルがあったら、まずは走る、次いで隠れる、最後に朝になるまで待つ、つまり逃げるが上策。走るのにはそこそこ自信があるってもんだ。なにせ、小さいころから走る・走る・走る、絡んでくる妖怪連中から逃げる・逃げる・逃げるの毎日だったからだ。
そのせいで中・高と陸上部でもないのに陸上大会に参加させられっぱなしだったが、まあそれも青春の一ページってことで。
妖怪とはいえ女の子の体を借りている以上、俺の全力疾走には叶うはずがなかった。しかも下駄だ、ろくに走れることないだろう。だが、逃げ切ったと思い立ち止まるたびに、遠くから彼女の足音が聞こえてきた。コツコツと音を立てて。
「なぜ?」
っとまた走り出すと、ポケットから…、
「チャリーン」
「あっ」
小銭がきらめきながら落ちて、その小銭が妖怪を俺に導く道しるべになっていた。
「クソ、そういうことかよ。」
せーので、「ヘンゼルとグレーテルかよ」と突っ込んでもらっても構わない。情けなるくらいのポンコツっぷりだった。
まずは明るいところへ向かおう。頼りなく灯る街灯を横目に、てきとうな角を思い切って曲がってみたが、「げっ」と思わず目を疑った。
彼女を尾行していたのは、見知ったいつもの通学路のはず、しかしながらなんだこの道。古びた瓦屋根の家、江戸時代のような街並みだった。道沿いには立派に手入れされた生垣、そして柳の木がゆらゆらと不気味に突っ立っていて、街角の木造りの商店の軒先には、木桶がころころと転がっている。しかもよく見ろ、っていうか感じろ、地面だって土じゃねえか。江戸の夜は暗い、月のない日にゃ何も見えないが、走り続けなきゃならない。また、コツコツと地面を踏みしめる下駄の音が聞こえた。
「おらっ」
意を決してもう一度曲がってみると、今度はアスファルトの感触だった。
つまり、この怪奇現象はこういうことだと理解するしかあるまい。
どうやら角を曲がるごとに現代と江戸を往ったり来たりしているということだ。
しめた!どうやらツキが回ってきた。走った先にはコンビニが見えてきた。
都市の明かりが守ってくれるはずだ、ならば、いや、まてよ。思い直して、考えてみる。今回は、街に行くことだけは避けなければならなかった。確かに、街は安全だ。人気が多いところでは、妖怪の力も弱くなる。しかし、彼女はどうなるのだ。全力疾走で男を追い回すなんて噂が付いたら、憑りつかれているだけの彼女はこの地で生きてなんか行けない。さっき見た服装を思い出せ、どう見てもお嬢様じゃないか。妖怪に人生を狂わされるなんて、ろくなもんじゃない。それは俺だけで十分だ。
自分の身の安全は第一だが、「チクショウ」コンビニの手前、地元で有名な猫屋敷の前を曲がり、江戸時代の景色へと、闇の領域へと迷い込んでいった。
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