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母が帰って来る前に、他の犬も見ようと思ってその柴犬から目を離した。すると直ぐに、若い夫婦がその柴犬の前に来て何やら真剣に話し始めた。
次はどの犬を見ようか、そんな事を考えている内に、お店の壁のコルクボードが目に留まった。そこには1枚の写真が、赤いピンで止められていた。その写真に近づくと、それは犬の写真だった。
「ミニチュアダックスフンド、チョコダップル、オス、9/13」
写真の余白部分にはそんな言葉が乗っていた。私は覚えたてのカタカナを必死に読んだ。
その時、お母さんが買い物を済ませて帰ってきた。
「さ、もう行こうか」
そう言って手を引かれたけれど、私は動かなかった。理由は分からないけど動きたくなかったのだ。
母は不思議そうに私の視線の先にあるものを見た。段々と手を引く力は弱くなっていた。
その時、
「気になりますか?」
と後ろから急に声をかけられた。
振り向くと、緑色のエプロンをした若い女の人が立っていた。
「そのわんちゃん、今裏にいますよ。連れてきますね。」
私達は何も言っていないのに、お姉さんは裏に消えた。私とお母さんは困ったように顔を見合わせた。
「お待たせしました〜」
お姉さんが持ってきたのは少し大きめのダンボール。所どころが湿って黒くなっている。何かを剥がした痕もある。
お姉さんがダンボールを床に置き、蓋を開けた。
そこから出てきたのは赤毛の犬。真っ直ぐに私達を見つめている。吠えもせず尻尾も降らず、ただただ不安そうに私達をみつめている。
「噛む子じゃないんで、触っても大丈夫ですよ」
と、お姉さんが笑顔で言う。
私は何も言わずゆっくりと手を伸ばした。その子に触れると、犬は視線は動かさず少しびくっと動いた。
私がしばらく撫でていると、お母さんが店員さんに聞いた。
「すいません、この写真に書いてある9/13ってなんですか?」
すると、店員さんは少し間を開けてから
「実はこの子、13日にこのペットコーナーからいなくなるんですよ。」
13日、それはまさに明日を指す日付だった。
「どうしていなくなるの?」
私は思わず店員さんに聞いていた。
「この子は、もうすぐ1才になるんです。ずっとここにいてもらう訳にもいかないから、違うところに送るんです。」
私はそれを聞いた瞬間、ちょうど数日前に読んだ絵本の事を思い出した。
「それって、死んじゃうってこと?」
お母さんが私の手を引っ張った。ごめんなさいと店員さんに謝る。ダンボールの中の犬は相変わらず私達をみつめている。
「死んじゃう訳じゃないんですよ。もしかしたら向こうで誰かが引き取ってくれるかもしれないし。」
でも私は知っていた。
保健所に行った犬が、そこにいられるのは1週間ということを。そして、1週間を過ぎた犬がどうなるのかという事を。
だから、涙がでた。悲しいから?可愛そうだから?残酷だから?今となってはもう覚えていない。
驚いた顔をしたお母さんに、私は言った。
「まま、この子、家に連れて帰ろう。大事にするから。」
お母さんは私としばらく目を合わせてから、小さな声で
「約束よ。」
と言った。
こうして家に犬が来た。名前はブラシ。
帰り道近所の家に生えていた赤いブラシの花が、赤毛の君と似ているように思えてそう名付けた。
家にいた兄と父は驚いて、私に言った。
「無責任な事はするなよ。いいかい?」
私は強くうなづいた。
ブラシは、家に来てから全然動かなかった。ご飯は食べるけど吠えもしないししっぽも振らない。
けれど2日後、兄がふざけて
「ブラシ、お手!」
と言って手をだしたら、なんとお手をしたのだ。
それだけじゃない。ブラシはトイレも、きちんとシーツの上で出来ていた。
私と兄はわしゎわしゃとブラシの頭を撫でて喜んだ。
父は、「きっと店員さんがしつけたんだろう」と言った。
でも、私は考えた。ブラシはなんのためにお手やトイレを覚えたんだろう。
もしあのダンボールの中から出れなかったら、いつブラシは褒められたんだろう。
いや、褒められる機会は、一生こなかったかもしれない。
臆病な目で、有無を言わさず「お手」の声に反応するブラシの姿に、子供ながらに違和感を覚えた。
この思った時から、私はブラシに「お手」と言わない事を決意した。たった1回だけ破ってしまったが。
そして私はもう1つある決意をした。
それは「ブラシに1週間以上の幸せを贈ること。」
私達がもしブラシと出会わなかったら、ブラシの人生はきっとあと1週間だった。
つまり、ブラシの寿命は1週間。
それを私が無理やり伸ばしたんだから、その1週間以上の幸せを送ることは、私の義務であり責任であると自負していた。
その決意を胸に、私とブラシの長いながい「1週間」はスタートした。
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小学生の夏、一緒にキャンプに行った時。
君があまりにも遠くまで走るからもう帰ってこないのかと思って、私達から逃げ出したかったのかと思って、不安でいっぱいになったこと。
それでも君の赤毛が、森の中で一際目立って見えて、安心したこと。
浜辺で、柴犬を連れたおじいさんに、
「綺麗な赤毛だね。きっと幸せに育ったから、こんなにも綺麗な色なんだろうね」
って言われて、何故か涙が止まらなくなったこと。
庭でBBQをして、君がねぎを食べようとして必死に止めたこと。
君がお庭の花を食べて、母が怒ったこと。
我が家に新しい犬、「あん」が来て、君はそれに嫉妬して、一日中吠えたり、あんを追いかけ回していたこと。
大雪の日、私は君の散歩に行きたくなくて。お父さんがそんな私に怒って、君のこと一瞬だけ嫌いになったこと。
突然嘔吐が止まらなくなって、家族全員で動物病院まで走ったこと。
水嫌いの君が、私が川で泳いでいるのを、溺れているのと勘違いして、助けに来てくれたこと。
インターフォンがなると、君とあんがうるさく吠えるから、宅配便が来る度に、きみら2匹を抱っこしていたこと。
散歩中に、君が大型犬に噛まれた時。その時一緒にいた兄が、一時期犬恐怖症になったこと。
大きな地震が来た時、君を抱っこして恐怖を紛らわしたこと。
いつもは近づくだけで吠えるのに、もう目の前まで行ってもなかなか起きなくなったこと。
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私と君の思い出。その全てが私にとってかけがえのないものでした。
君は私の家に来て、最初の臆病さを忘れるくらい堂々としていましたね。
時には何かを言い訳にして、「責任」を誰かに投げようとしました。ごめんなさい。
君がこの世を去る前の日の夜。私はなんとなく君に「お手」といいました。
もう、君は手を挙げなかったけど。
気づけば君の体は、赤毛とは呼べないほど白髪混じりになってしまいましたね。
今でも家の中を掃除をしてると、綺麗な細い赤毛を見つけることがあります。
その度に、その赤毛を強く握って離したくなくなります。
君のうるさい声がしないから、インターフォンが鳴ったことに気付かない時があります。
その度に、君のケージがあったほうをみつめて、涙が出そうになります。
そして最後に。
私と過ごした14年間はどうでしたか。
私と過ごした1週間はどうでしたか。
あのダンボールの中より幸せでしたか?
君がきちんと言ってくれないから、私は不安で不安で仕方ありません。
私はしっかり「責任」を果たせていたのでしょうか?
君がいなくなった今、私に出来ることはひとつしかありません。
この世界が与えられる限りの幸せと愛をあなたに願います。
君の1週間を私にくれて、ありがとう。
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