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盛重温也(もりしげあつや)は闇動物園の飼育員だ。
大学卒業後、「闇動物飼育士」の資格試験を通過し、二年の研修期間を経て、市立の闇動物園に採用された。現在二年目、今年入った新人四人から見れば先輩だが、今以て学ばなければならないことばかりで、各種の闇動物担当から教えを受けつつ、指示された掃除や餌の下ごしらえ、来園者の案内等の仕事に励む日々だ。
平日のある日、闇動物園の閉園時刻直前に見回っていた温也がヤギタイプの闇動物の檻の前まで来ると、夕暮れの橙色の光の中、大木の前に添えられたベンチにひとり、黒ずくめの男性が座っているのが見えた。
温也は俯き気味の男の傍まで近寄ると、「すみませんが、閉演の時刻です」とマニュアル通りに声を掛けた。声に反応した男が顔上げると、彼と目が合った温也はハッと息を呑んだ。男の顔が、あまりに整っていたからだ。
男は病的に白い顔に、赤みの強い唇を持っていた。瞳の色はぼんやりとした暗褐色で、髪は男性にしては長めのゆるくうねった黒髪。身長は、ベンチに座ってはいるが、恐らく、平均よりやや低い温也より大分高いだろう。元々細いだろう体は、黒のパンツとロングコートのせいで益々痩身に見えた。
男は体に関しては女性性を感じさせる要素をあまり持っていなかったが、顔だけは整い過ぎているせいか妙に中性的で、何故か清純可憐な少女の雰囲気さえ漂っていた。温也の好みのタイプは、アイドル系の親しみやすい庶民的な可愛らしさをもつ女の子だ。そして、男性に対しては今まで相手がどんなに可愛い顔をしていたとしても、一度も恋愛対象として興味を持ったことはない。だというのに、温也はその自分よりも身長が高い痩せぎすの男に、「この男相手だったら、自分は抱く方だろうか、抱かれる方だろうか」とまでぼんやり考えてしまった。
幸い、普段の自分では有り得ない思考への違和感がスイッチとなり、温也は男に対して警戒感を持つことができた。見た者を血迷わせる顔を持つ、この浮世離れした男。
彼は、悪魔だ。
闇動物園には妙なものが集まる。それは、目に見えないものだったり、見えるものだったりする。
見えないものは、所謂世間一般でいうところの幽霊である。それらは物を落としたり壊したり、耳元で妙なことを囁いたりするが、実体を持たないのでそうゆうものだと分っていれば実害は少ない。煩わしいのであれば、塩やら聖水やらを撒いておけば即座に退散するので、そう警戒すべきものでもなかった。
問題があるのは、「目に見えるもの」の方だ。まず、園内で飼われている闇動物に寄ってくるのは、人の管理下にない野生の地球に来たての闇動物だ。彼らは闇動物園の檻に入った同類の気配に誘われやってくる。ある程度頭のいいものだと、仲間を檻から解放しようとまでしてくる。
そんな時は闇動物園の飼育士が来園者に害が及ばぬよう、野生の闇動物が園内に侵入してくる前に対処する。闇動物飼育士の二年の研修期間は、実はその為にある。勿論、闇動物の飼育方法なども学ぶが、そちらは専ら配属された職場で実践しつつ身に着けていく。それよりも早急に学ぶ必要があるのは、闇動物の捕獲、撃退のテクニックだ。最新の防衛システムと対処技術を叩きこまれた職員の迅速な対応で、闇動物園はどこよりも闇動物が寄ってくる場所でありながら、どこよりも闇動物から守られた空間となっていた。
「目に見えるもの」の中で闇動物より厄介なのは「悪魔」とよばれる存在だ。闇動物以上に謎が多く、人間と同等の知性を持つと思われるが故に、闇動物より遥かに危険なそれらもまた、稀に闇動物園にやってくることがあった。
彼らは一見、人間と見まがうような姿で現れる。しかし、実際に目の前にしてみれば、余程鈍感なタイプでない限り、すぐに彼らが人間ではないと気付くだろう。それは、存在が曖昧過ぎたり、逆に浮世離れした圧倒的な存在感を持っていたり、また、温也が遭遇してしまった男のように美し過ぎたりするからだ。
悪魔たちはそれなりに目撃はされど、闇動物のような捕獲例は未だに一件もない。以前には積極的に悪魔を闇動物と同様に捕獲、分析しよういう試みもされたが、しかし、その関係者の多くが、命を奪われたり、突如行方不明になったり、意識を失いそれきりになってしまったり、はたまたなぜか本人ではなく親類縁者に不幸が起きたりした。それら経験から、現在、悪魔は現代科学では全く説明不可能な特殊な力を持ち、人間ではとても太刀打ちできない存在として認識されている。
避けるべき存在といえども、闇動物が人間社会にしばしば紛れ込んでくる現状にあって、人が悪魔と遭遇するケースはゼロにはならない。幸い、悪魔は彼らなりに礼儀というものを弁えているらしく、いくつかの点に注意すれば悪魔と接触を持った人間でも災厄から免れることができると知られていた。特に重要な注意点は「怒らせない」「取引をしない」「心を開かない」の三つで、悪魔三原則として小学校低学年から教え込まれる常識となっていた。
闇動物園の管理者たる闇動物飼育士は当然、一般人より悪魔との遭遇率は高い。だからこそ、研修期間には闇動物と同様、悪魔の対処に関しても特に教育を施されていた。
悪魔と出くわした場合にまず一番大事なのは、自分が相手を悪魔だと気付いたことを絶対に悪魔本人に言わないことである。温也は相手が悪魔だと知ってすぐにも逃げ出したい心をひた隠しにして、一般の来園者にするのと同様の態度を崩さず、さっき言ったばかりの言葉を繰り返した。
「すみませんが、間もなく閉園時間になります」
悪魔らしき男は、温也の言っていることを聞いているのかいないのか、理解しているのかいないのか…温也の方を向いた表情の読めない両の目から、涙をそれぞれ一雫、ツーッと流した。温也は不吉なものに関わりたくないのは山々だったが、あくまで人間の来園者にするのと同じ対応を続けた。
「どうされました?お加減でも悪いんですか?」
男は少女染みた雰囲気さえある見た目の印象とはややギャップのある、高いとも低いともいえないハスキーな声で、「実は、飼っていたのがいなくなりまして」と答えた。
「この付近でいなくなったようですから、その地元の闇動物園であるこの施設に保護されているかもと、こちらに来たのですが」
普通の動物は、闇動物園にはいない。もし、目の前の美男子がただの成人男性であれば、禁止されている動物を飼っていたということで、温也はまず警察に通報するだろう。しかし、男は悪魔である。その場合、相手にした人間は出来るだけ事を荒立てないのが鉄則だ。悪魔の機嫌を損ねたが最後、頭から骨ごとバリバリと喰われることだって起きうるのだから。
「どんな種類のペットなんですか?」
感じている恐怖などおくびにも出さず、温也は尋ねた。研修所では悪魔に遭遇してしまった時の態度として、取り乱さずに応対する為の訓練も行ったが、その訓練の成果が発揮されたわけではない。防衛本能でもって、却って冷静になっていただけだ。
「特に品種というものもなく、雑種です。体は牛の様な感じで……大きさも、大きな牛ぐらい…いや、大きな牛をふた回り大きくしたくらいでしょうか。尻尾は、ありきたりな蛇です。ただ、三匹分ぶら下がってます。顔は三面あって、一つはライオン、一つはハエ、一つは老人です。ライオンは無駄吠えしない無口なタイプですが、老人のはたまに呪詛を吐いたりします」
温也は園内にいる大型の闇動物をざっと頭の中に羅列した。どうやら、男が言っているような種類のものは現在、園内で飼育されてはいない。
「残念ですが、こちらでは預かっていません。その闇動物の気性は、どうです?」
「大人しいタイプです。取り乱すと何をしでかすかわかりませんが」
常に獰猛ではないと知り少し安心したが、あまり見ない程の巨大な闇動物だ。急ぎ周辺地域に注意喚起する必要はあるだろう。まず上司に報告しなればと気が急いた温也が軽く会釈し背を向けてその場を離れようとすると、すかさず男は呼び止めてきた。
「一緒に探してはくださらないんですか?」
男からは見えない温也の顔面に、良くない汗がたらりと滑り落ちていった。正直、悪魔との共同作業は遠慮したい。しかし、一度呼び止められたのを無視しては、肩でも掴まれ無理矢理ふり向かせられたついでに、肩肉のひと握りも持っていかれるかもしれない。
温也がおそるおそる振り返ると、男は秀麗な顔にのせた眉の端を下げ、途方に暮れていた。彼が人間であれば、十人中十人が彼を喜んで助けてやることだろう。
「とりあえず、園内の職員に伝えて…周辺の住民にも知らせます。それで…」
温也が悪魔の逆鱗に触れぬよう、細心の注意を払いながら言葉を選んでいるのにかぶせるように悪魔は聞いてきた。
「見つかるのに、どれくらいかかりますか?」
「……それは、なんとも」
「一刻も早く見つけてやりたいんですが」
「そのお気持ちは、飼い主の方として、当然とは思いますが…」
「あの子は普段は大人しくて落ち着いているんですが、空腹が過ぎると取り乱して混乱してしまうんです。あちこちに見境なく体をぶつけたりして、擦り傷切り傷を体中に作ってしまうので、そんなことになっていたらと思うと、可哀相で気が気じゃありません」
牛を二回り大きくしたサイズの巨体が、建物ならともかく、もし市民に直接ぶち当たってきたら…こっちこそ、気が気じゃない。
「わかりました。…とりあえず、本部に報告してきますから、ここで待っていてください」
温也は再び悪魔に背を向けると、駆け足で闇動物園の事務所へと向かった。事務所のドアを開けると、外出が多い園長の代わりに園内に居ることが多い副園長が、事務机と書棚で埋まる部屋の最奥にあるいつもの席に坐っていた。
「お、見回り終了か。門を閉めるぞ」
「巨大な闇動物が、園外周辺を徘徊しているかもしれません」
副園長は、内線を掛ける為に上げた受話器を一旦下ろした。
「それは…来園者からの情報か」
「そうではあるんですが…1313の事態です」
その数字を聞いた園長は一瞬で顔色を青くした。1313…このコードは、悪魔が関わる状況に陥った場合に使われる。
悪魔と遭遇してしまった時、遭遇した人物、特に闇動物飼育士は出来る限り出会ってしまった当人だけで悪魔に対応することが求められる。何故なら悪魔の対処に失敗した場合、悪魔と顔を合わせた人間すべてに災厄がもたらされる可能性があるからだ。
副園長はごくりと唾を飲み込んだ後、問題の闇動物の特徴を温也に尋ねた。
「基本は牛タイプです。ただ、大きさは一般的な牛より二回り大きめ。尻尾は蛇三頭。頭部は三面で獅子、ハエ、老人。老人面は呪詛を吐くので注意が必要かもしれません。温和ですが、空腹によって暴れることもあるそうです」
「空腹…食料は?糞尿タイプか?怨念タイプか?」
「あ…」
「すぐに聞いてこい!」
温也が急いで事務所から出て行こうとすると、「どうやって連絡するつもりだ」と、副園長に机に置きっぱなしの通信端末を指し示された。
ヤギタイプの檻の前で待たせていた男の元に温也が戻った頃、陽はもう大分落ちかけていた。薄暗くなった夕闇の中、男の目は先程の暗褐色ではなく、黄金に輝き始めていた。彼らや闇動物たちが本領を発揮する時間が着々と近付いていた。
「そのっ、その子は、何を好んで食べる子なんですか?人の糞尿?それとも、欲望とか怨念とか…」
「いつもは糞尿で間に合うんですが、たまには欲望を与えないと駄目みたいです。糞尿は十分与えてきたつもりなので、私の元を逃げ出したのは、人の欲を求めてのことだと思います」
温也はポケットから通信端末を取り出すと、事務所に電話を掛け、男が言った通りの事を副園長に伝えた。そして、目の前の男にもハッキリと聞こえるように、「情報が入ったら、私にも連絡して下さい。それから、見つけても手を出さない様に」と大きめの声で言って電話を切った。
言いはしたが、本件のような迷子探しの場合、主導権を握るのは対闇動物の公的専門機関である闇動物捜索班だ。捜索班は対象の闇動物が一般市民にとってあまりに危険と判断すれば、その時点で闇動物の殺処理を決行することだろう。そうなれば、温也は十中八九…いや、100パーセント、飼い主の悪魔に命どころか魂まで奪われることだろう。
どうか最悪の結果にはなりませんようにと願う温也の脳裏に、実家の家族の顔が浮かんできた。
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