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仕事用の作業着からカジュアルな通勤着に着替えた温也が悪魔と共に向かった先は、闇動物園の最寄駅から三駅離れた市内随一の繁華街だった。
闇動物が出没しやすい場所は、その個体の食性によって異なってくる。どの種類の闇動物であっても人間から排出されるモノが好物である為、人口がそれなりに密である地域に現れることに変わりはない。しかし、物質として目に見える排泄物――糞尿の類――を好む闇動物は人目を避けることもあってか、閑静な住宅街や郊外の施設に現れることが多く、目に見えない心の排泄物――人間の内側から漏れ出る欲望や憎悪――を好む個体は、人目に付くリスクを冒してもより人が密集している街の中心部に出没するケースが殆どだった。
暗い感情を喰らう闇動物の中には、幼い欲や少年の不満などを美味と感じる個体などもおり、それらは白昼堂々幼稚園や保育園、小中学校に突如現われることもあった。だが、今回捜索中の闇動物は飼い主からもたらされた情報により、大人の欲望を好む個体だと判明している。陽が沈んだこの時間帯、欲を抱えた大人たちが集まる場所を考えれば、闇動物捜査班も温也も、闇動物園と五キロしか離れていない眠らないこの街を本件の最重要捜索地域と見定めたのは当然のことであった。
梅雨が明けた、しかし夏独特の湿気を多分に含んだ空気がエアコンの排気やネオンの光、何より仕事終わりで浮かれた人々の熱によって暖められる中、温也と悪魔とは雑居ビルが建ち並ぶ通りを歩いていた。
温也は狭い路地の前を通りかかる度、顔を横に向け丁寧に奥を窺い見ては暗がりに目をこらした。そうしてから、隣に立つ黒ずくめの同行者に「どうです?このあたりにいそうですか?」と尋ねた。
「いいえ」
この街に着いてから、何度同じ答えを聞いただろう。否定を返される度、温也はがっかりし、しかし、密かに安堵もした。捜しているのは牛より大きな闇動物である。市民の安全と自らの魂の安寧の為に一刻も早く見つけたい気持ちはあっても、いざ出くわす瞬間を思うと臆する心は抑えられなかった。
闇動物は光が苦手な性質を持つ。特に太陽の光には滅法弱く、温也の勤め先の闇動物たちは昼間の開園時間の間中、檻の奥の日光の届かない場所にうずくまっていることが多い(そのせいで温也は、来園者から何度「つまらない」と苦情を言われたことか)。捕獲されていない野放し状態の闇動物の場合も、太陽が出ている間は大抵、地下か森林深くの暗闇に隠れている。
陽が落ちた後こそが彼らの本領発揮の時間だ。しかし、彼らは人口の光もあまり好まない。都会で人間を「狩る」場合、彼らは影が落ちた場所をつたうように移動し、そして、獲物を捕らえる一瞬にだけ照明の元に姿を晒す。もしくは、獲物が自分の潜む闇に近付くのをひたすらに待つ。
本件で探している闇動物は、牛を超す巨体だ。街中で隠れる場所は限られるが、無いわけではない。彼が隠れ場所としている可能性が最も高いのは、地下の下水道だ。稀に汚物を嫌うという珍しい闇動物もいるようだが、目下捜索中の個体は普段の主食が糞尿であることから、彼が下水道を利用しない理由は無い。よって、温也から捜索対象である牛タイプ闇動物の特徴を伝えられた闇動物捜索班は、繁華街の地下に敷かれた下水道を中心に捜索する方針を決定した。
温也は闇動物飼育士といえど、一般市民。何より、闇動物捜査班の面々に悪魔との接触を避けさせる為、地下での捜索は捜査班にまかせ、地上で同行者である悪魔の見張りを兼ねつつ迷子を探すことにした。
「少し前までは確かにこちらの方角から気配を感じたんですが、もう移動してしまったのかもしれません」
内心が裏腹な温也と違い、悪魔の方は人通りの絶えない道路で立ち尽くし、心底落胆している様子だった。
「一旦、駅の方に引き返しますか」
二人が闇動物園からの移動にも使った駅に戻ると、駅前はつい十数分前に比べ遥かに人出が増していた。
この近辺を大型の闇動物が徘徊しているという情報は、温也が副園長に事の次第を報告した直後からあらゆるメディアを通して人々へ流されている。それどころか、個人所有の通信端末で闇動物出没警報の緊急アラートが漏れなく鳴らされた筈なのだ。だというのに、この街の金曜の夜はいつも通りの賑わいであった。
闇動物出没警報が発令された場合、子供たちは保護者の管理の元で屋外から出されないことが多いが、大人たちの場合はそうはいかない。ひと昔前、今より闇動物が珍しい存在であった時分には、誰もが大人しく外出を控えたものだった。しかし、闇動物の目撃が後を絶たず、その存在が身近になった昨今、人々は闇動物が現われたからといって、そうそう普段の生活スタイルを変えようとはしない。三年前、ハエ程の大きさしかない極めて小型の闇動物が大量に流れ込んできた時には、そのハエ型闇動物が病原菌を拡散させているという噂が流れ、さすがに街から人の影は消えたが、そういった特殊な情報が無ければ人々は大抵警報を無視し、いつもの生活を続けた。
闇動物が頻繁に出没する中で警報が発令される都度、非常事態だと反応していては社会は膠着し経済は停滞する。怪奇現象の一端よりも、人々は経済危機による生活苦の方をより恐れているのだ。
もちろん皆、闇動物との遭遇が怖くないわけではないのだろう。しかし、人口過密の都会にあって、闇動物一匹が襲う人の数などとるに足らない。近頃では闇動物が襲うのは特別欲深い人間だという根拠のない風説がまことしやかに流れていることもあって、人々は「まさか、自分は襲われないだろう」と思い込んでしまっている。
闇動物と身近に関わる仕事に従事している者として、温也などは皆にもっと警戒感を持って欲しいと思うのだが、彼が期待するより人々は無防備且つ逞しく、温也はいつもと変わらない街の活気に呆れると同時に感心するしかなかった。
「ここは人の気配が強過ぎて、とてもあの子の痕跡を捜せそうにありません」
二人が闇動物園を出てから既に一時間近く経つ。週末の宵の口、街の空気はすっかり浮わついたものになっていたが、そんな中でも悪魔は協力者を得た後も一向にペットが見つからない状況に大分落ち込んでいる様子だった。
「この辺りは本当に人が多いですから、暗い場所でも大きな動物がいれば誰も気が付かないなんてことはないでしょうね」
二人並んで橋のたもとに行き着いたところで、温也は橋の下を流れるドブ臭い暗い川面を見下ろし、「その子は、泳げたりはするんですか?」と悪魔に質問した。
「泳ぎは苦手です。脚が水につかる程度であれば気にしないようですが、胴まで浸かるような深さは嫌がります」
「あのぅ、おにいさんたち、おやくそくあるんですかぁ」
ここは可能性が低いかと足元の橋の下ばかりを凝視していた温也は、突然聞こえてきたややボリュームの大きい女性の声に顔を上げた。大学生だろうか、半袖のシャツに短いスカートの若い女性が悪魔の真ん前に立ちはだかっていた。
「よかったらぁ、わたしたちといっしょに飲み行きませんかぁ」
まだ夜になったばかりといっていい時間帯だったが、女性は大分出来上がっていた。彼女の後ろで赤い顔はしていても彼女ほどは酔っていない連れの女性が「やめなよぉ」と窘めたが、その言葉は気に留められていない様子だった。
「きょう、きゅうりょう出たんでぇ、おにいさんたちの分も、おごっちゃいますよぉ」
彼女がまともな状態であったなら、悪魔などナンパしなかっただろう。それだけ、悪魔というのは近付き難い雰囲気を放つ存在だ。しかし今、恐ろしいことに酒精に侵された彼女には、温也の隣に立つ男が若い超絶イケメンにしか見えていない。だが、酔いの浅い連れの女性の方は遅らばせながらも男の異様さに気が付いたようで、「ホント、やめて、迷惑だって!」と本気で酔っ払いを止め始めた。
「とってくったりしませんからぁ」
判断能力の著しく低下しているその女性は、ケラケラと笑いながら悪魔の袖の裾を握った。ナンパされたことなど一度もなく、突然の事態に面食らってばかりだった温也もようやく我に返り、女性の危機的状況を察知した。悪魔の袖を掴むだなんて、獲られて喰われるのはそっちの方だ。
「あ、あのっ、俺たち…」
「悪いけど、今、迷子のペットを探してる最中なんだ」
悪魔は女性の手を掴まれた方の反対の手で袖から外すと、女性ににっこり笑いかけた。女性は三秒間悪魔に見入っていたが、悪魔が女性から手を外した途端に後ろに倒れ込んだ。
「ちょっと!!大丈夫!?」
幸い、連れの女性が受け止め…半分下敷きになってくれたお陰で頭を地面に打ちつける事体にはならなかった。
「飲み過ぎだよ!しっかりして……えっ?…えっ?どうしたの?本当に大丈夫?!」
悪魔は直前まで話していた女性を欠片も気にせず、進行方向に向かって歩き出した。温也は悪魔について行かなければと思いつつ、状況を分っていない市民を何もせずに放り出してはおけなかった。
「これ、救急隊員の方に渡して下さい」
携帯端末で救急車を呼ぼうとしている連れの女性に、温也は自分の名刺を渡した。記載された闇動物園に問い合わせてくれれば事情は通じるだろう。悪魔に聞かれる距離で「悪魔に精気を抜かれただけだから」とは声に出せず、気の毒な犠牲者にしてやれることといったら、それで精一杯だった。
通行人の隙間を縫うようにして温也が同行者を待とうともしない背中に駆け足で追いつくと、悪魔は「名刺なんか渡して、さっきの女性を気に入ったんですか?」などと自分の行為を棚に上げた軽口を叩いた。温也が横目で悪魔の表情を窺い見ると、先程まで彼の顔を覆っていた悲壮感はいくらか和らいでいた。若い女性の精気を掠め取り、気分が少し上向いたのだろう。
闇動物飼育士である温也は、過去に人間が闇動物から精気を抜かれる現場を見たことがあった。それはとてもグロテスクであると同時に、理解し易い光景だった。闇動物の食事の様と比べて悪魔の精気の奪い方は遥かにさり気なく速やかで、温也はかえって薄ら寒い気分になった。
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