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一度引き返した駅から再び離れ、十分弱歩いた温也と悪魔は各種居酒屋やバー、クラブが密集する区画を通り過ぎ、人気のないオフィス街に出た。あらかたのサラリーマンが勤務を終えた時間帯、人の念を好む闇動物が現われる可能性はまずないだろう場所だった。
温也は今晩何度もしているように、通信端末で地図を確認した。
「ここまで来てしまうと、賑やかなところから離れ過ぎですね。一旦また駅の方に戻るか、それともあっちの方向にあるホテル街を抜けて行きますか?」
提案してから横にいる悪魔を見やると、彼は温也が示すのとは全く別の方向を見つめていた。
「えーっと…。あの、どうします?」
「あの子の気配が急に濃くなったような気がします」
悪魔が言い終えるか終えないかのタイミングで、温也の持つ端末が着信を知らせる電子音を鳴らした。
「はいっ。えっ…ええ、はい……それ、どこですか?はい、ああ、お願いします」
耳からスピーカーを離し端末の画面に見入る温也に、悪魔は今きた電話の内容を尋ねた。
「下水道のマンホールが破壊されたのが見つかったそうです。あなたのペットが原因かどうかはわかってませんが、人や小型中型の闇動物がコンクリートを破壊するのは簡単ではないですし、やはり…」
「あの子です。地上に出てきたから急に気配が濃くなったんでしょう。それで、場所は?」
「位置情報、送ってもらいました」
温也が「あっちです」と指差すと、悪魔は示された方向へと駆け出した。
「あっ、待って…」
すぐに追いかけようとして、しかし大事な仕事を思い出して、温也は電話口に向けて言った。
「そちらに悪魔が向かってます。皆さんは急いで退避してください」
悪魔と温也とは捜索班から位置情報を送られた場所、雑居ビル群の谷間にある駐車場前に着くと、フェンスに渡されたバリケードテープをくぐり中へ進んだ。
駐車スペースが並ぶアスファルトの地面に、三角ポールとバーで四角く囲まれた直径1メートルをゆうに超える大きな穴が開いていた。その穴は、それなりに離れた場所に立っていても鼻を刺激してくる特徴的な臭いから、下水道に繋がっていることが知れた。
「においます」
「下水の蓋が無くなってますからね」
「そうじゃなくて、あの子の匂いです」
温也は元は正円だっただろうマンホールの側に寄った。ボロボロに砕けた穴の淵は捜索対象が地上に出る際に撒き散らしたと思われる汚水にまみれていたが、その中でも、ある方角にだけアスファルトを濡らす水滴の黒い染みが点々と長く続いていた。
「どうやら、こっちに向かったみたいです」
聞くまでも無い、と言った風で悪魔は無言で汚水の道標を辿り出し、彼の背中を温也も追った。
闇動物捜索班が行う捜索は、主に街の至る場所に設置された防犯カメラの映像や、ネット上に流れる一般人の目撃情報を収集分析して対象個体の居場所を絞り込む方法をとっている。しかし、闇動物は照明の光が溢れる街中であっても陰の入り組んだ闇を探し、カメラや人の目から巧みに姿を隠す。
ある程度、闇動物の居場所が絞り込まれた現状では、同類の臭いに強く反応する嗅覚を持ち、人間では察知することが困難な闇動物の気配に気付ける悪魔の方が、数十人体制で組まれた捜索班よりもピンポイントで闇動物を探し当てる可能性が高いと温也には思われ、悪魔に同行している状況で緊張感はいよいよ増した。
しかも、捜索対象の闇動物の飼い主となれば、余計に自分のペットの気配は嗅ぎ取り易かっただろう。二人が次の現場にプロの捜査班より早く辿り着いたのは当然のことだった。
逆光に縁取られて益々黒が濃くなった悪魔の背中を追い駆け、温也がビルの隙間に巡らされた公道か私道か判然としない薄暗い路地から、ネオン輝く通りに出ようとした時だった。温也より四、五歩先行く悪魔に、クールビスのサラリーマン風の中年男性がよろけながら近づき、縋りついてきた。
またしても、酔っ払いか。不安定な状態の人間は、どうしてこう悪魔に吸い寄せられてしまうのだろうか。呆れながら温也が男性の様子を窺えば、彼は予想外に蒼白な顔をしていた。男性は身体を慄かせ唇を震わせながら、悪魔に訴えた。
「た、たすっ、助けっ…」
これが平凡な金曜の夜であれば、繁華街をうろつく物騒な輩にか弱い市民が絡まれでもしたかと思う場面だ。しかし今、この場所は捜索中の闇動物の気配に満ち満ちた界隈。温也はこの男性が助けを求めてきた理由に目星がついた。
悪魔は男性を押しのけるようにして、男性をがやって来た方向に踏み出した。そこは、数多のスナックの置き看板に照らされた通りだったが、明るさのわりに、歩行者の影は見当たらなかった。だが、立っている人歩いている人はいなくても、道端に横たわっている人物は一名あった。
温也が悪魔と共に駆け寄りその人を見ると、彼は先程の男性同様サラリーマンと思しき服装であった。意識を失っているらしき壮年の頭部には、粘度の高い透明な液体がたっぷりと纏わりつき、電飾看板のライトを反射して紫色にてらてらと輝いていた。
温也は壮年男性の脇に屈むと、男性の呼吸を確認する為にドブ臭い顔に耳を寄せ、脈をとる為に手首をとった。呼吸は正常、脈拍も睡眠中の速さと変らなかった。そうしてから、横になった体とその周りをざっと観察した。薄暗い中で確認できる範囲では、多量に出血をするような外傷は見られなかった。
温也が安堵から大きく息を吐くと、いつの間に横にいたのか悪魔に助けを求めてきた中年男性に「この人、大丈夫なんですか?」と聞かれた。
「呼吸と脈拍は正常みたいです」
温也は携帯端末に三桁の番号を打ち込もうとして、それをやめ、改めて捜査班に電話をかけると男性一名の救急搬送を要請した。
「この方の身に何が起きたんですか?」
電話を繋げたまま温也が中年男性に尋ねると、男性は動揺で途中途中何度もつっかえながらも事情を説明した。
曰く、互いに面識のない中年と壮年のサラリーマン二人は近所のスナックで口論になったらしい。
二人揃って店を追い出されたが、帰宅しようと駅に向かう中年男に壮年男が後ろから執拗に絡んできた。我慢できなくなった中年男が喧嘩を買ってやろうと背後を振り向くと、あるべき場所に壮年男の顔は無かった……いや、見えなくなっていた。壮年男の首から上が、ライオンに喰われていたのだ。
しかし、喰われているように見えたのは一瞬で、次の瞬間には無事壮年男の頭は解放され……哀れ涎塗れにはなっていたが……ライオンの足元に崩れ落ちた。…と思いきや、ライオンの足元はライオンの足ではなく、草食動物のそれだった。
歓楽街のど真ん中でこんな話をされれば、一昔前なら幻覚を見た泥酔者の戯言としか思わなかっただろう。しかし現代は闇動物が街を跋扈し、迷子探しの飼い主悪魔が泣きついてくる時代である。
「あなたは大丈夫ですか?その闇動物に精気を奪われたりはしませんでしたか?」
「あ、はい。私には目もくれずに立ち去りました」
喧嘩相手が肉食獣に頭を咥えられているのを見た瞬間に、中年男性の怒りの感情は吹っ飛んでいってしまったのだろう。幸運にも、彼は闇動物の餌に成り得なくなったわけだ。
男性の話を捜索班に報告し終えた温也が倒れた壮年男性に再び顔を向けると、さっきまで温也のむかいで男性の濡れた頭部を熱心に嗅いでいた悪魔の姿が無くなっていた。
闇動物の捜索より悪魔の監視が目下の主な役目である温也は、すぐさま立ち上がり周辺を見回した。悪魔は倒れた壮年男性がいる場所から二十メートル離れた脇道に入ろうとしていた。温也は心細げな中年男性に、「専門家と救急車がすぐ来ますから」と言い置き、慌てて悪魔の後を追った。
一心に狭い路地を前進する悪魔に温也が追いつくと、悪魔は温也を振り向きもせずに「あの子の涎です」と断言した。
「涎の匂いで個体を判別できるんですか?」
「あの子は特別です。母親に育児放棄されたのを、私がミルクや下の世話をして育てたんですから」
悪魔の返答に、闇動物園の飼育員である温也は急激に親近感を抱きかけたが、息を止めてまばたきを二回することにより、頭を冷やした。
「腹が満たさて、多少は落ち着きますかね」
「まさか。それは無理でしょう。凡人一人の欲や念で収まるようなあの子じゃありません」
悪魔は何故か自慢げで、温也はそんな大層なものを逃がすんじゃないと叱りつけたくもなったが、もちろんそんな危険は冒さなかった。
おそらく、第一被害者である壮年男性の容体はそれ程心配しなくていい。被害者が弱った病人や高齢者でなければ、闇動物に精気を奪われたことが原因で命を落とす事例は滅多にないのだ。だが、一度精気を抜かれた人間は、短くて数週間、長くて半年以上虚脱状態に陥り、生活や、場合によっては人生に多大な支障をきたす(反面、その期間は恨みつらみ怒り妬みを失い、心は案外平穏だったりもするのだが)。
第二第三の被害者は出すまい。心に念じながら、温也は闇の濃い入り組んだ路地を、悪魔の嗅覚を頼りに早足で進むのだった。
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