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幻炎
「桜様」
御簾の中へ入った乳母の娘・桐乃は主人・桜に声をかけた。
「…何か?」
「御文が、参っております」
「出世欲にかこつけた、恋文…」
「姫様、露骨すぎます」
「…口が過ぎました。御返事は、するゆえ下がっておくれ」
「はい」
桜姫は、ふっと寂しい瞳をした…。
遠い…。
同じ女の乳で育ったにも関わらず、遠い。
それが身分から来るのではなく、心からだと桐乃は気づいていた…。
「…姫様…」
胸が締めつけられるような思いだ。
置いた文の束を持つと、桜姫は、さらさら返事を書き上げ…牛飼い童を呼んだ。
「悟丸(ごのまる)…今宵、【琥珀】が参るゆえ、準備して下さい」
「心得ました」
9つか、10の子供は、素直だ。
左大臣邸には、悟丸の他にも牛飼い童がいる。
それは女房の子供であったり、様々だが、その中には、特例の牛飼い童も存在した。
名は、琥珀。歳は、12~14。桜姫付きの童としか聞かされていない。
ゆえに誠に存在し、確かめた者は誰もおらず、悟丸とて初対面であった。
その夜、桜姫が琥珀と呼ぶ、水干姿の少年が現れた。
「そなたが、悟丸か?」
「は、はい」
明らかに琥珀の方が年長者とはいえ、新参者なのだが。
若君のような振る舞いに、悟丸は気おされてしまった。
「…琥珀様、ですね?」
「そうだ。桜姫の御用で出る…。屋敷の外まで頼む」
「はい」
子供が、素足で廊下を歩く音がする。
桜姫付きの童…初めて会うのだが。
自分よりも、年上で男らしく、端正な顔で見つめられると、
男色でなくとも、悟丸は赤面した。
「…あ、あっ、…んっ…あ、…」
通りかかった女房の部屋の近くで、女の甘い喘ぎ声がした。
きっと男に抱かれているのだろう…。琥珀は、僅かに形の良い眉をひそめた。
「気にするな。行こう」
「はい」
あとわずかで門を出るというとき。少し前から、直衣姿の男が近づいてきた。「誰だ?」
小声で琥珀が、尋ねる。
「ご存知ないのですか?」
「私は、姫の遣いがなければ、与えられた部屋からもほとんど出ん。知るわけがないだろう」
そうだった…。
同じ牛飼い童でも、この少年は違うのだ。
「近衛大将様です」
「と言うと、…左大臣様の二の君(次男)か」
「はい…」
「おや、これは小さいお子達でどこか行くのかな?」
近衛大将は、酔っていた。すっと悟丸の前に出て琥珀が言う。
「桜姫の遣いです」
「桜姫の? こんな夜に珍しい。そなた、名は?」
「…琥珀と申します」
「そうか…。しっかりやりなさい」
「ありがとうございます」
二人を見送って、近衛大将は呟いた。
「…あのような美しい童が、いたとはな」
すたすたと歩いていく琥珀の顔に、わずかな緊張が走る…。
あれが、左京の宮(宮中での呼び名)。
姫の従兄弟か…。
「琥珀様、あちらが門でございます」
「ご苦労だった。そなたは、もう帰って寝るといい。姫には、伝えておく」「はい、ありがとうございます」
にっこり笑って駆けていく後姿に、琥珀が一人ごちた。
「…すまんな」
琥珀は、京の都へと夜の闇にまぎれていった。
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