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「…やはり、来ましたね」
「主人の屋敷におこし頂いたそうで、高貴なお方とは知らず、ご無礼いたしました」
「堅苦しい挨拶は、よい」
「匂い袋は、ありがとう存じます。…私に御用とは?」
「まあ、そう急かさず。座りたまえ」
ひとつため息をついて、琥珀は座った。
目の前の川は、先日よりも穏やかに見えた。
「…そなた、女人であろう」
「!」
「まあ、そう構えなくともよい」
「しかし女人の牛飼い童とは、何やら姫のご事情かな?」
「それをお知りになって、いかがされます?」
「…私の屋敷に行こう」
「お断りします。目的は、なんです?」
「…目的などない。だがそなたのことは、気に入った」
「な、…」
くいっ。顎の下に力を感じ。
男の瞳が、琥珀を覗き込んだ。
「…私を餌に、姫を脅すおつもりか?」
「あの、姫に興味などない…」
「だったら!」
「黙りなさい」
「んっ、…」
ぐいっと細い腰を抱かれ、そのまま唇を奪われる…。
「…んっ、ん、…」
銀の糸をひいて、一瞬唇が離れる。
「童、…本当の名は…?」
「…ん、…離せ!」
唇が離れた瞬間に、体を突き飛ばす。肩で息をしながら、唇をぬぐって潤んで誘う瞳が、睨み返した。
「…真相を知って、 …私を抱くおつもりか?」
「それもよいな」
「…かような用なら、帰ります」
「では、まだ左大臣邸でお会いいたすとしよう」
「好きになされよ」
ざっ…背を向けて、屋敷へ帰る琥珀に右京の宮は、もう何もしなかった。
何故私にあんな真似を…触れた唇には、
まだ熱いぬくもりが残っていた。
私は、女を棄てたのだ…。
なのに何故…御仏は、私を女に戻すのか…。
右京の宮と会った日を境に、琥珀は、姿を見せなくなった…。
「桜姫、このところ琥珀を見かけなくなりましたが?」
「まあ、左京の宮様。お気遣いありがとうございます」
「…何か体の具合でも?」
「あの子は、あの通り見目が他の童より引くため、わたくし付きの童にしていたのですが…」
「何かあったのですか…?」
「何も申しません…。ですが、やはりここは、左大臣様のお屋敷です…。暇を出して里に帰しました」
「…そうでしたか…。残念ですね」
「誠に可愛がって頂きまして…」
「違います」
「は?」
「あの子は、あなたとお話しする理由にしかなりません…」
「…まあ。宮様、おかしなことを…」
「本気ですよ」
「…二の君様…わたくしは、…」
「今すぐとは言いません…。私があなたを想うことを許して頂きたい…」
しゅる…衣擦れの音をたて、左京の宮は、その場を去った…。
「…悟丸、いますか?」
「はい。姫様…」
「文を届けておくれ」
「はい。あの…」
「なんですか?」
「琥珀様とは、もうお会いできないのでしょうか…」
しょんぼりする童に、姫の手が触れる。
「…琥珀を慕ってくれて嬉しく思いますよ」
「寂しゅうございます…」
「また、会えるといいですね…。さ、お行きなさい」
「はい」
少年は、渡された文を持って去った。
「…身から出た錆…」
姫は、一人ごちた。
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