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カラン…。手にしていた筆が落ちた…。
一度、契りを交わした宮様は、…。
あの炎のような夜を限りに、もうお会いすることはなかった…。
冬を迎え、…ますますお加減は悪化したと聞く…。
春はもうすぐそばまで来ているのに、…お会いすることは、もう…難しいのかと、約束よりもあの方を信じる気持ちが砕けていきそうだった…。
「あなたと同じ名の花を、左京の宮と、あなたと三人で愛でましょう…」
目を閉じれば、こんなにも鮮やかに思い浮べることが出来るのに…遠く儚くなっていくあの人のそばにいられぬこの身が、どうしようもなく、つらい…。
そしてその日は、来た…。
「なんと右京の宮が…」
「今日こちらに参ると仰せになり、牛車に乗られたのですが…」
「牛車の中で、…逝かれたというのか…」
「…はい…」
左京の宮は、遣いの言葉に息が止まる思いだった…。
悲しいと、思う前にやっと楽になれると、己のことを思ったことに…
「…左京の宮様?」
「大事ない…」
「あの、主人がこれを宮様に、と…」
「…文か?」
「読んで頂ければ、わかるということですが…」
「わかった…」
私のすぐそばに同席していた桜姫に、この会話は聞こえただろう…。
悲しすぎると、人は泣けない。この人もそんな気がした。
桜が、咲き乱れる…。
右京の宮を…追うように。
生き急ぐように…。
ずいぶん前だが、右京の宮が桜姫に約束したので、お招きし。
我が屋敷にて、月と桜を愛でつつ。
酒を酌み交わす運びとなっていたものを…。…待てども、もう現れぬ…。
「桜姫…。お聞きになられましたか…?」
御簾の下から文を渡すと、…桜姫は、文を手に、扇で顔を覆い、そのまま御簾から出られる。
私を含め、一同はぎょっとし、制した。
「いけません! 高貴な方が御簾の外にお出になるなど」
「…お止め下さいますな」
私の制止の声も御耳には入らない…。
お顔は、扇で隠れてはいるものの、誰が見ているかわからぬと言うのに。
桜の下で立ち止まり、座るお姿は、牡丹のようであった。
雲一つない、闇夜に浮かぶ月。
仰げば風と共に舞う。花びらが。
私の足元にも。桜姫。あなたのおそばの桜。
愛しげに見つめるその瞳は。
己の恋にたとえておられたのでしょうか。
花は……。…散りゆくものだ。
まだ1年とそばにおられてはいないが、何と声をかければ良いのか。
凛と顔を上げておられるものの、儚げな一面が知れた。
桜姫の顔を、花がすーっと舞い降りてゆく。
私は知らず知らず、桜姫に近づいていた。
「…左京の宮様」
我を失ってはおられぬようだ。
桜姫は、右京の宮の笑顔が、その桜の下にあったことを思い出していた。
「御簾ごしでなく、見たかったのでございます…」
あれは、幻ではなかったと…確かめたく。
「…人がきます。まだ冷えますから屋敷へ。さあ御手を」
扇で隠そうと、その瞳に現れている悲しみを、私は肌で感じていた。
あなたは、私にわからぬようなさるけれど。何かを決心なさったのか。
ゆるりと扇を落とし、月に照らされた美しい顔が振り返った。
お顔は私にしか見えまい。
その美しさに息を呑む。
そして私の推定どおり、琥珀がこの人と同一人物だったことも確信した。
整った唇のかすかな震え。
私を気遣い、お泣きになるのを、こらえておられるのだろう。
淡い桜の色を映したそれには、深い悲しみの色が混ざっている。
私は知っている。
この瞳が誰を見つめてきたのか。
その瞳がどれほどせつないのか。
桜姫御自身より知っている。
白く……細いその手が。
差し出されたそのとき。
ずくっ。この胸を矢が通った気がした。
血がどくどくあふれだし、そこから痛みが広がってゆく。
私は、右京の宮を兄のように慕い、尊敬しながら。
桜姫の前から、宮がいなくなるのを。本当は心待ちにしていた。
いなくなることを望んでいた。
心で何度も自らこの手で殺めて…!
「左京の宮様?」
醜い嫉妬など気づきもせず、桜姫は、私を覗き込む。
あなたにとって、私は生涯男ではないのだろうか…。
駆け上がる欲情と、嫉妬に満ちた心を、私は隠すのにつとめた。
…私は確かに。
宮が桜姫の前より、いなくなることを望んでいた。
真実は呪詛(呪い)までかけそこねるほどに…。
だがしかし、こんなのは違う!
この人が幸せでないことに、私の命に、何の意味があるのか…!?
宮は、…己のために一度として、生きたことはなかっただろう。
寝ては起きを繰り返し。
多くの若い貴族が出世や、酒、花、女を楽しもうと…。
あの方には、それが叶わぬ。
むしろ楽しむことを虚しいとさえ、仰っていた。
あの方が、姫の愛したあの方が、生涯一度でも、己の心のゆくままに生きれたなら…きっと…。
だから、あの夜…嫉妬と、殺意の狭間で苦しみながらも。
それが己への仇になろうと、見守ると決めたのに…
桜姫にこのような思いをさせたかったのではない!
このような思いをさせるのなら。
私が。私が死ねば良かったものを…。己のために…。
この人を悲しませてしまった…。
あの夜、宮を阻んでいたら、どうなっていただろう…。
見守ることしかできないことが、己の無力がつらくて。
私は、逃げたのだ!!
これほど後悔するほど、この人を愛していたのに。
私が死んでいたなら。
あなたは。宮と微笑んで下さっただろうか……?
手を引き寄せ。私は冷えたその華奢な身体を、強く胸に包み込んだ。
「左京の宮様」
「……」
「胸が、……いとうございます。…お約束、して下さったのにっ…」
「姫…」
悲しむお姿が、胸をえぐり。痛みを覚えさせるのは……罰なのだ。
春風に冷えた肌。
額に、髪に、頬に舞い降りる花びら。
私は、そのまま桜姫を胸に、姫を抱き上げ、寝所へとお連れした…。
その時のことは、よく覚えていない…。
私は乳母の君に姫を頼むつもりだったが…。
姫は、私がそばにいることを望んだ。
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