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第三会議室に入ってきたのは梛君だった。梛君はいつものようなひょうひょうとした顔はしていない。滲み出る怒りを見せていた。
「争う声が廊下まで聞こえたぞ――って、聞こえたのはそっちの男の方の声だけだけどな」
「すみません、部署内の問題点を話し合っていました」
私の言葉に、梛君は不機嫌そうに目を細めた。そして、低い声を出す。
「そういうことは主任の夏本じゃなくて、部長の俺に話すことだろうが」
「すみません」
「夏本、おまえに言ってるんじゃない。おまえ、どこの誰だ」
「……総務課の小嶋です」
「なるほどな、おまえの話、外で少し聞かせてもらったけどな、おまえ、本当にうちの夏本が小嶋に仕事を多く振り分けてると思うのか?」
「それは、亜美が……」
太亮が返答に困っていると、梛君はポケットの中から社内用のスマホを取り出した。少し操作をして、表を出して見せる。
「これは夏本が作成した各職員の仕事の分配量だ。俺は気に入らない仕事量だがな。夏本は各職員がこなせる量を完璧に把握し、無理のない範囲で振り分けている。小嶋の欄を見ろ、他のやつらの半分以下の仕事しか振っていない。小嶋は子持ちの妊婦だから、休みやすいようにと配慮した内容だ。小グループを作り、休んだ分はそのグループ内の他のやつらが消化するようにさせている。休んだ小嶋にしわ寄せがきていることはありえない」
「でも亜美……嫁は……」
「時短の取得についても、夏本は小嶋の育休復帰の際に提案したそうだ。だが、フルで働くと決めたのは小嶋の方だそうだ。我が社は今経営不振――ボーナスが減ったからかもしれないな」
梛君の言葉に、太亮はすっかり押し黙ってしまった。
「妊娠中は精神的にも不安になるんだろう? 夏本に嫉妬しているのは、おまえの嫁の方じゃないのか? おまえ……夏本と付き合っていたんだろう?」
思い当たる節があるのだろう、太亮はすみませんでした――と梛君に謝って第三会議室を出て行こうとする。その肩を、梛君がぐっと掴んだ。
「待て、謝る相手は俺じゃない」
言われて太亮は怯えたような目で私を見た。そこで、私には太亮の心の中がわかったような気がした。太亮は、私に負い目を感じているのだ――。
「朝……夏本さん、すみませんでした」
そう、頭を下げる太亮の姿が、あまりに小さく見える。
「いえ、小嶋さんには、早めに休みを取るよう提案してみてください。診断書があれば、産休前から必要なだけの休みが取れるはずです」
「……ごめん、朝海……」
「もう、気にしていません」
それは、私の本心だった。私は自分が薄情な人間なのではないかと思うくらい、五年も付き合っていた太亮のことをなんとも思っていなかった。
いや、それには原因がある。間違いなく、目の前にいる梛君のせいだ。私の頭の中も心の中も、もはや梛君で埋め尽くされてしまっているのだろう。気がつけば、梛木君のことばかりを考えている。この気持ちを捨てることに必死なのだ。振られた男のことなど、考えてはいられなかった。
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