874人が本棚に入れています
本棚に追加
/94ページ
「一年も単身赴任になるのね」
私は少し意地の悪いことを言う。これは私自身に対する楔だ、梛君には、家庭がある。私は心の鍵を、絶対に開いてはいけない。
梛君のことは、大嫌い――
「あぁ、嫁、里帰り中なんだ。冬頃に二人目が生まれる予定。まぁでも単身赴任って言えば単身赴任か、嫁の実家、関西だからさ。俺は東京に住んでるし」
ズキンと心が痛くなる。
「時々顔見せてあげなさいよ、上の子も喜ぶでしょう?」
「上なぁ、俺にあんまり懐いてないって言うか……女の子は成長が早いよなぁ、六歳にしてすでに難しいお年頃」
「プレゼント作戦よ、パパ」
「簡単に言うなよ、仕事のイレギュラーには強くても、娘には敵わないんだ」
心の痛みを、感じないように、感じないように……私は極力心を殺して話を続けた。
「じゃあね」
「タクシーで送っていってやるのに」
「変な噂が立ったら困るわ、電車で帰る」
食い下がろうとする梛君を振り切って、私は駅に駆け込んだ。気を許すと涙が込み上げてくる。
梛君の家族の話がなんだと言うのだ、微笑ましいだけじゃないか、笑って聞いてあげなさいよ──理性がアドバイスをくれているのに、なかなか飲み込むことができない。
車窓に写る疲れきった自分の顔を見て、情けなくなる。
先が思いやられる──梛君は、なんとも思っていないそぶりだった。私一人が騒ぎ立ててはいけない。
落ち着け、落ち着け──そう心の中で繰り返して、明日からの身の振り方を考えながら帰路についた。
最初のコメントを投稿しよう!