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臨月に入ったその日のことだ。インターホンに映る綺麗な女性に私は息が止まるような思いがした。
見たことのないはずの女性が、どうしたことか、誰であるのかはっきりとわかるような気がしたのだ。
「はい」
居留守を使うこともできただろう。でも、ここで逃げてはいけない気がした。震えた声を絞り出すと、女性が話し始める。明るく染めた長い髪に、緩いウェーブをかけている。白のワンピースがあまりにも似合っていて息をのんだ。まるで、物語の主人公のような存在感──
【突然申し訳ありません、梛と申します】
私は、予想していた名前に、へなへなと体から力が抜けるような感覚にとらわれた。モニターに映る綺麗な女性は紛れもなく梛君の奥さんだ。私が、絶対に敵わない女性――
「は、はじめまして、夏本と申します」
どうにか声を絞り出すと、女性は深々と頭を下げてきた。姿の見えない私に向かって、彼女はどんな思いで頭を下げているのか――決まっている。答えは憎しみだ。一時でも梛君を寝取った女として、私のことを心の底から憎んでいるのだろう。
【夏本さんあなたに言わなければいけないことがありまして、お尋ねしました。このままでも構いませんか? できることなら直接お会いしてお伝えしたいと思っています】
ここで、逃げてはいけない。
「わかりました、おあがりください」
私は意を決してエントランスの開錠ボタンを押す。ゆっくりと開かれた扉を、彼女は優雅な足取りで進んでいった。
もう、私に逃げ場はない、これからどんなことを言われようとも、耐えなければいけない。
私はそっとお腹に手を触れた。
「あなたがいるから、大丈夫」
インターフォンが再び無機質な音を立てる。
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