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私は力を失って、へなへなとその場に倒れこんだ。床にへたり込む寸でで梛君が抱き留めてくれる。
「だめだよ……」
「なんでだよ」
「私ばっかり、幸せになったらいけないよ。奥さんは?」
「嫁もさ、おまえが妊娠してること知っていろいろ考えたんだろうよ。おまえに会いに行った日は俺と添い遂げるつもりでいたんだろうけどな、おまえが俺の子妊娠して一人で産むことを決めたって知って考え直したんだと思う」
「奥さん、優しすぎるじゃん」
「そうでもないさ、おまえに会ってさ、あいつも自分の幸せを取る気になったんだ。自分を愛してもいない、金を稼ぐだけの男じゃなくてさ、本当に好きな男をやっと選ぶ気になったんだよ。おまえのおかげ」
「それじゃぁ……」
「親権も日本の家も全部渡して、身ぃ一つでおまえを、いや、おまえたちを迎えに来たんだけど」
「信じられないくらい嬉しいんだけど……」
「そもそもちゃんと連絡しろって言ったろ。あれだけ好き勝手やって、子供ができないはずないって思ってたんだ」
「なにそれ確信犯」
「そうでもしないとおまえは俺のものになってくれないだろう?」
「なれっこないわ、あなたには奥さんがいたでしょう」
私の言葉に、梛君は困ったような顔になる。もう赦してくれとでも言いたそうな顔だ。こんな表情は、初めて見たかもしれない。
梛君の腕に抱かれた撫子がぐずり始めた。私は撫子を受け取るととんとんとリズムよく背中を叩いてやる。眠たかったのだろう、次第にぐずる声は規則正しい寝息にかわる。
「慣れたもんだな」
「当たり前でしょう」
「寝顔はおまえにそっくりだ」
私は撫子をベッドに寝かすと、梛君をリビングに招き入れる。
「綺麗にしてんだな、小さな子供がいるともっと取っ散らかるもんかと思った」
「撫子に危険がないようにいろいろ処分したの。何が子供にとって危険になるかわからないから、できるだけ物を少なくしておきたくて」
「なるほど、おまえらしい」
「いろいろ聞く気はないの。奥さんと梛君が互いのことを考えて納得して離婚したなら、私はとやかく言える立場にないわ」
「まぁそういうことになるな」
梛君はすっと手を伸ばしてきて、私の頬に触れようとしてきた。私はその手をはたく。
「待って」
「いつまで? 俺はおまえの心も欲しい」
「とっくに持って行ってるくせに……っ」
思わず口が滑ってしまった。梛君は驚いたように大きく目を見開く。
「いつから?」
「高校の時から、卒業式の日、私はあなたに好きだと告白するつもりで呼び出したの」
もう時効だろう――そもそも、私はあの日の梛君の心を知るまでは、納得できないのだ。
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