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「突然すみません」
がちゃりと扉を開けると、蓮野さんは以前よりもずっと穏やかな表情をしていた。
「い、いえ……どうぞ」
「いえ、玄関先で、この先は、梛さんとあなたの空間だと思います。私はここで話をさせてください」
「でも……、あの、娘も奥におりまして、目が届くようにしておきたいものですから」
「そうですか……、では、失礼します」
丁寧にお辞儀をした蓮野さんは、靴を綺麗にそろえた。私よりも線の細い体つきに、大きな瞳――女の私から見ても、はっとするような美人だ。
リビング彼女を招き入れると、私は震える手で紅茶を入れ、テーブルの上においた。
「可愛いですね、娘さん」
「ありがとうございます」
「梛さんに似ています。うちのことを、梛さんから聞かれましたか?」
「少しだけ……」
「そうですか。先日は本当にすみませんでした、私も家の体裁がありましてあんなことを――」
「いえ、当然のお言葉だったと思います。謝るのは私の方、梛君は、あなたと結婚していたのですから……」
ぐっと、涙を飲み込む。もしもう一度彼女が梛君とよりを戻したいのだとしたら、私は何と答えるのだろうか――。答えは決まっている、NOだ。もう、梛君を渡す気はない。
「梛さんは、ずっとあなたを探しておられたのだと思います。私は、あなたの代わりでした」
「そんな――」
「私も、ずっと梛さんを身代わりにしてきました。長い間体裁の良い夫を演じさせました、彼はその役をきちんとこなしてくれていました。あなたと、再会するまでは――」
返す言葉が見つからない。頭が真っ白になって、考えることを放棄してしまったみたいだ。
「はじめは腹が立ちました。梛さんは仮にも私と家庭を築いていましたから。今まで上手くやってきたのに――と。でも、私にもあなたたちのことを追及できない間柄の男性がおります。梛さんがあなたを選んだことで、さんざん話し合いをしました。梛さんとあんなに話しをしたのは、思えば初めてだったと思います。私にも決心がつきました。子供たちも――本当の父親に懐いておりますから。梛さんは、そのために子供を可愛がらなかったのだと思います。彼は、私が産んだ子供たちを一度もその手に抱きませんでした、彼なりの、配慮だったのだと思います」
撫子を抱いた時の梛君の表情を思い出す。彼は、子供が嫌いなわけではないのだろう。蓮野さんとの間にできたことになっている三人のお子さんを抱かなかったのは、はやり本当の父親に遠慮していたということになるのだろう。
「お子さんたちを、大切にしてあげてください」
「――本当に……可哀そうなとこをしました。あの――朝海さん、どうか、梛さんを幸せにしてあげてください。私が奪った彼の時間を埋めるくらい」
「あなたのせいだけではありません。梛君も、もちろん私も、あなたを責める気持ちはありません。蓮野さんも、どうか、本当に好きな人と素敵な家庭を気付いてください、今度こそ」
蓮野さんははらはらと涙を流してから、にっこりと笑顔を見せた。はっとするほど、綺麗な泣き顔だと思った。思わず嫉妬してしまう。たぶん、私がこの人に勝てるのは、梛君を思う気持ちだけだ。
蓮野さんは、少し落ち着くと帰っていった。
「最後に会うのはあなただと決めていました、あなたに謝罪をして、私と梛さんの関係はきっぱり水に流せると思います」
「お気をつけて」
吹っ切れたような顔を見せてから帰っていく彼女の背中を見送った私も、心の中でいろいろなものが剥がれ落ちていくような気持になっていた。
消化しきれなかった梛君の過去と、決別しようと思う。遠回りしたからこそ今があると思いたい。
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