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土曜で休日出勤でもないのに俺は会社の近くにいる。
あの画廊の前には胡蝶蘭や百合などの清楚で華やかな花がいくつも置かれ、スタッフも一人ドア前に立つという気合の入れよう。そして室内はそれに見合った混み具合だった。
肩がぶつかるほどではないが明らかに店側の人数は足りていない。
そこここで商談もしており、一見様の俺はおかげで一人ゆっくりと観ることができた。
そう広くないギャラリーの中は別空間だった。
飾られた大小の油絵は風景画がほとんどで、どこか東欧あたりの路地や街並みを書いたものが多い。
……絵一枚で、こんなにも違う空気を醸し出せるのか。
芸術の善し悪しなどはわからない、しかし迫力というか、何かエネルギーが感じられる。
絵の脇に添えられた題名のプレートに貼られた小さな丸いシールは売約済みの印だろう、かなりについていた。
奥の方ではちょっとした人だかりが一枚の絵の前に出来ていた。
興味を持って覗くと、小ぶりな大きさの絵で人の頭が邪魔してよく見えないがどうやら人物画のようだ。
ここまでずっと風景ばかりの画家はどんな人物を描くのか。
気になり辛抱強く空くのを待つ俺の耳に、客と販売員の声が届く。
「珍しいね、彼の人物画なんて」
「渡欧してから公には描いていないですね。こちらは奥様にお願いして特別に出して頂いたものです。あいにく販売はできませんが」
「おや、それは残念だ」
なかなかにいい絵だ、手にできないのは惜しい。
そう言い後ろ髪を引かれるようにしながら席を移った客の後にするりと入り込み、額ばかりが大きな絵の正面に立つ。
――薄衣を軽く纏い、窓辺に立つ後ろ姿の裸婦像。
夜明け前のような暗闇の中、そこだけ光が差すように白い背中をこちらに向けて微かに振り返る、それは、
「……三枝」
息が止まるかと思った。
実際少し止まっていただろう。隣に立つ老婦人の感嘆のため息に我に返った。
指先を肩の上に軽く置き、こちらを……きっと画家を見ているのだろう瞳。
肖像画や写真のように精緻ではない、誰と分かるように描いてあるわけではない。それでもそれは確かに三枝だった。
今よりも少しあどけない顔。何た言いたげな唇。この絵は、どう見ても――突然、後ろから伸びてきた筋張った腕が絵を壁から外した。
「誰、これ出したの」
柔らかだが憤りを隠しもしない声音で冷たく言い切ると、そのまま絵を隠すように抱える男。
長い前髪に半分隠れた眼光は鋭く尖っている。
「っ、先生。これはお早いお越しで……迎えの者は、」
「そんなのいいから。これ、どういうこと」
「お、奥様より許可を、いただきまして」
「……ふうん」
興味なさげに呟くとそのまま事務室とプレートのついたドアの方へと進んで行き、オーナーらしき男性が慌てて後を追った。
微かにざわついた店内も、彼らの姿が見えなくなるとじきに元に戻った。
「……話、通してなかったのか」
「完璧怒ってたよな、先生」
奥様の独断か、と小さく囁きあうスタッフ。
残りの展示を軽く流して画廊を後にした俺が外に出ると、ちょうど目の前に一台の高級車が停まったところだった。
運転手が開けたドアから降りてきたのは、いかにもな和服の老人とこれまた高級そうな服を着た孫くらいの若い女性。
さすが一流どころは客層も違うと横目で見ていると、助手席からもう一人降りてきた。
身体に合ったスーツをきっちりと着こなす、幾分白髪の混じったその人がよく知った顔だったことに驚く。
「おや、片桐君か。絵を見にきたのかい?」
「っ、専務。いえ、案内をもらいまして後学のためにと」
「そうだな、話の種にもなるだろう。河野社長も好きだしな」
それだけ言うと軽く目で別れを告げ、専務は同乗者の方へ戻って行く。
飛んできた画廊のオーナーの挨拶を軽く流して中へ入っていく一行を目の端に止め、俺はその場を後にした。
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