神戸マチエール

1/1
15人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
5時間目の物理の授業の学習内容は単振動だった。心地よさそうに隣の席の四辻芹菜はうつらうつらしている。テンポを下げたメトロノームのように、彼女の華奢な体は左右に揺れた。 彼女はついに完全に眠り込んでしまったようだ。寝息の音が少しずつ大きくなってきたので、芹菜の頭をものさしでぽんぽんと叩いた。それでも起きないので彼女の頭でエイトビートを刻むと、さすがに目を覚ました。 「…何よ。」 不機嫌そうな寝起きの顔で、こちらをじろっと見ながら芹菜はつぶやく。 「先生に怒られるぞ。」 「眠くなる授業をする方が悪いと思うわ。」 猫が伸びをするように、あくびを噛みながら芹菜は机の上に両腕を伸ばした。授業は丁度、振り子の運動についてであり、その後も彼女は振り子の動きのようにうつらうつらとした。こちらに倒れてきそうになる彼女の身体を、いつでも受け止められるよう意識をむけていたが、ついに彼女がこちらに倒れこんでくることはなかった。 5時間目の終わりのチャイムが鳴り、彼女はやっと意識がしっかりしたようだ。 「授業ちゃんと聞いてなくて大丈夫かよ。」 「知ってる話を聞いて眠くなるのは自然の摂理よ。それよりも女の子を起こすなら、もっとやり方があるのではないかしら?」 ものさしで彼女の頭を叩いたことをまだ根に持っているようだ。小さく、華奢な体に比例して彼女の頭は小さい。だが、その大きさに反比例して彼女はとても賢く、聡明であった。 「学校の授業って、文化祭のバンド演奏みたいなものね。」 「どういうこと?」 「エゴ的で聴衆のことを考えてない。」 「つまり聴くに堪えないってことか。まぁ文化祭の演奏に上手さを求めるのが、そもそも間違っているとも思うけど。」 「せめて音のボリュームくらい考えてほしいわね。」 「ギターとドラムの音がでか過ぎて、ボーカルの声が全然聞こえないバンドとか多いよな。」 「そうね。それはともかく、大樹が私の頭をドラムみたいに叩いたことは覚えておくわ。」 「…ごめんなさい。」 素直さというのは人間の美徳であり、この僕、鈴城大樹の長所でもある。彼女は帰りに何か甘い物食べさせてくれたら許してあげるわと、すべての男子が虜になるであろう笑顔で微笑んだ。彼女の虜になっているのは、この僕も例外ではない。 彼女の見た目というか、人柄といったものを、僕のつたない言葉で表してみる。 四辻芹菜は、神戸市の高校に通う女子高生で、背が小さく、ミルクティーのような髪色で、肩下まで伸びた髪は絹糸のように柔らかく、知的で、可憐で、好奇心旺盛で、肌が白く、多少高慢でもあり、足はすらっと細く、チョコドーナツとベーグルを好んで食し、華奢で、甘い物に目がなく、白いワンピースがよく似合う、僕の惚れている女の子である。 徒然なるままに彼女の特徴を書き散らしてしまったが、僕の幼馴染でもある。小学校の低学年のとき、隣の家に引っ越してきた彼女とは腐れ縁のような、悪友のような関係だ。 中学校に上がるぐらいのとき、思春期に突入した僕はいつしか彼女に恋をしてしまったらしい。いや、これは恋だろうか。愛といったほうが正しいかな。長い年月を経てできた家族愛にも近い、恋とか愛とかよくわからないそれを、今更言い出せる感じでもなく現状維持を続けている。 高校一年生の春の終わり、夏の少し手前。彼女の頭でエイトビートを刻んだお詫びとして、放課後に甘い物を奢ってやった。最近三宮にできたお店でフローズンヨーグルトワッフルを食べながら、何の前触れもなく芹菜はこう切り出した。 「新しい部活をつくりましょう!」 口の周りに可愛らしくクリームをつけながら、芹菜は新しい部活を作ろうと言い出した。また妙なことを言い出したなぁと思いつつも、興味本位で話を聞いてみる。 「また唐突だな。っで、何の部活をつくるの?」 「私は一つのことに捕らわれたくないの。」 「といいますと?」 目を輝かして彼女はこちらに顔を近づけてきた。 「いろんな楽しいことをしたい!」 「といいますと?」 「そうね。例えば外で思い切り遊ぶ!」 「といいますと?」 「ちゃんと話を聞いてくれてるのかしら?」 「といいますと?」 彼女はファイティングポーズをとった。白く細い彼女の右腕から、芹菜は僕の左肩めがけて右ストレートを放った。 芹菜のなよなよパンチをオノマトペで表すなら、ぽこっくらいの表現が正しい。彼女の右ストレートがヒットした僕の右肩には何の痛みもなかったが、僕のシャツに触れた瞬間、彼女は内側に少し拳をねじった。 「ストレートは絞り込むように打つのがポイントよ。」 彼女はどこで知ったのかわからないボクシングの知識を鼻高々に語った。ただし、知っているのと実践できるのとでは話が異なる。彼女の右ストレートは、僕のシャツにシワを作っただけであった。 「ごめんなさい芹菜さん。ちゃんと聞いてます。」 誠実さこそ僕の長所である。そしてもちろん、話はちゃんと聞いている。シワのよったシャツを手で伸ばし終えて彼女の方を見ると、彼女は少し寂しそうな顔をしていた。 「とにかく外で遊びたいのよ。昔は体が弱くてあんまり外に出られなかったから。」 彼女の幼少期について少しだけ語る。芹菜は産まれてすぐ、先天性の心室中隔欠損と診断された。心臓部分に生まれつきの欠損がある病で、ケガをして細菌が身体に入り、血管を通して細菌が心臓にまで達してしまうと、長期間の発熱や心臓の弁を破壊するなど、深刻な症状を引き起こしてしまう。そのため、幼いころはあまり外で遊ぶことができなかった。 小学校の時、芹菜は一度だけかなりの出血を伴う怪我をしたことがある。小学校の中庭には飼育小屋があり、その裏に大きな溝があった。いつもは誰も落ちないようにきちんと格子状のふたがされているのだが、その日は管理員のおじさんが溝の清掃をしており、格子上のふたが外されていたのだ。当時5年生で飼育委員だった彼女は、ウサギのえさを抱えて前がよく見えなかったらしい。そのまま溝に落ちて、体中傷だらけになった。 担任が慌てて芹菜の両親に電話をかけて、芹菜の母がすぐさま学校に駆けつけ、彼女を病院に連れていった記憶を今でも鮮明に覚えている。  その後、芹菜の親父さんがカンカンになって学校に電話をいれていたらしい…。 心室中隔欠損の患者の多くは、その幼少時に欠損部分が自然と閉じて治癒するのだが、芹菜の場合は、中学校を卒業する年の定期健診で自然治癒したことが判明した。 そういうわけで高校生になった今、とにかく思い切り外で遊びたいお年頃であるらしい。 「もちろん、大樹は一緒に遊んでくれるわよね?」 「まぁ、部活もやってないから問題ないけど…。具体的に何をするのかが決まってないと、部活は作れないよ。」 「部活を作るために必要なことは、すでにこの頭の中に全て入っているわ。」 「といいますと?」 芹菜がじろっとこちらを見てきたので、僕は「部活を作るのに何が必要か教えてください。」と言い直した。 「“といいますと?”って言うのやめてくれないかしら。」 「“といいますと?”って便利な表現だよね。」 「私との会話において手を抜いてるようにも聞こえるわ。その言葉は私と話すときは禁止。」 芹菜は口の前で指を交差し、うさぎの口のような×マークを作った。 「手を抜いてるわけではないよ。部活を作るって話が唐突すぎて、もう少し詳しい説明が聞きたいだけだ。」 僕は弁明した。彼女との会話を億劫に思ったことは生涯一度もない。 「それも一理あるわね。閑話休題。本筋に戻りましょう。」 彼女が提示した流れはこうだ。 ・部活の活動内容を決める。 ・顧問となる先生を見つける。 ・部員を募集する。(最低4人) 「まず、活動内容が問題だろ。“外で遊ぶ”が活動内容じゃ、どの先生も取り合ってくれないよ。」 「外で遊ぶは確かに響きが悪いわね。それに頭が固い先生方を説得するには、みんなが納得するような大義名分が必要ね。」 といいますと?と言いかけて、流石に機嫌を損ねそうなので止めておいた。 「大義名分?」 「そうよ。行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠のことね。」 「いや、それは知ってるんだが。」 「例えば、そうね。」 彼女は目を瞑って顔をこちらに近づけてきた。キスでもされるのかと一瞬ドキマギ慌てたが、そのまま僕の持っていたタイ焼きを食べた。 「私は大樹が太らないように、あなたのクロワッサンタイ焼きを食べたのよ。」 「いや、どう見てもまだ食べたりなかっただけだよね!」 彼女は自分のワッフルを早々にたいらげ、先ほどから物欲しげな目で僕のタイ焼きを見ていた。 「歴史の中でも多いに活用されているわ。世界中の国々の主導者たちが、儲けたい、豊かになりたいという本音を隠して、敵国は悪だ。滅ぼすのが正しいという大義名分を国民に植えつけ、自分たちは高みの見物で戦争をおこしている。」 「規模がでかいし、デリケートな例えすぎて反応に困る。」 「とにかく、私たちの部活を設立するには、その必要性を訴える大義名分がなければいけないのよ。」 外で遊ぶことで、それが僕たちだけじゃなく、多くの人にとって価値のある活動に繋げる…。こんなのはどうだろう。我が町神戸を練り歩き、神戸界隈で大いに遊ぶ。そこで得られた経験、地域の素晴らしいところを宣伝、PRする活動。我ながらなかなかセンセーショナルでユニークなアイデアじゃないだろうか。 「地域のよさをアピールするってのはどうかな?例えば、この近隣でできるアクティビティや自然体験とかを体験して、それをPRする活動。」 「所謂、町おこし的な感じね。悪くないと思うわ。」 「この町の魅力をアピールさえすれば何でもいいなら、お前が言っていた外でとにかく遊びたいっていうのも満たされるんじゃないか。」 「そうね。外で楽しく思い切り遊べるなら、私はそれで大丈夫よ。」 活動内容…地域の様々なアクティビティや自然、伝統文化などを体験し、この町のよさを発信していく活動。 こうして我が部の大義名分ができあがった。 「ちなみに部活の名前はどうするんだ?」 「それは今しがた閃いたわ。」 彼女は物理のノートに大きな文字で書き出した。物理に何か恨みでもあるのだろうか。 「地域活性化担当部」 「僕の親戚が地方公務員なんだけどさ…なんか役所の部署みたいな名前だね。」 「かっこいいでしょ?」 なんと言っていいか、本当にこれでいいのだろうか。 「沈黙は同意とみなされるわよ。」 「まぁお前の部活だし、芹菜がいいならそれでいいよ。」 「何言ってるのよ。部長はあなたがやるのよ。」 「はい!?何でだよ。」 「私は裏で操る黒幕的な、モリアーティ教授的なポジションよ。」 「なんだそれ。部長になると、予算会議やら施設取りやら面倒だから押付けようとしてるわけじゃないだろうな。」 「そんなことないわ。私が言い出したことだもの。面倒なことだって引き受けるに決まってるじゃない。」 「部長は私より大樹の方が向いてると思うのよ。大樹は人をよく見てるし、気にかけてあげられる。部長はそんなやるべきだと私は思う。」 至極光栄、好きな子に褒められるのは幸甚の至りだ。今の彼女の言葉だけで十二分に引き受ける理由になる。その上彼女は有無を言わさぬ表情でこちらを見つめている。 「…わかったよ。引き受けるよ。」 諦めのよさこそ僕の長所である。 「流石に地域活性化担当部っていう名前は変えないか?」 「人の意見を否定するからには、さぞ素晴らしい案を持っているのでしょうね。」 「いや、そういわれると困るが。うーん。そうだな…。野外活動部とか?」 「普通ね。」 「アウトドア部」 「英語に変えただけじゃない。」 「外でげんきにあそ部」 「バカにしているのかしら?」 このままでは、何を言っても否定されそうだ。街で思い切り遊んで楽しむ。そして、そのよさをPRする。僕は瞬間的に思いついた名前を口にした。 「町おこし部」 しばらく芹菜は、窓の外を眺めて考える素振りをした。 「…悪くないじゃない。でももっとオシャレでポップな感じにしたいわね。」 「オシャレでポップって言われてもな。」 「神戸という街を応援する部だから、神戸マチエールなんてどう?」 「オシャレといえば洒落てるのかもしれないけど、それこそ英語にしただけじゃないか。それに何をするのかよくわかりにくい。」 「凡人には伝わりづらいかしら。ちなみにマチエールはフランス語よ。」 「誰が凡人だ。フランス語だって言われても普通わからねーよ。」 「文句が多いわね。っじゃあもう神戸マチエール地域活性化担当部でいいわよ。これなら分かり易いでしょ。」 「長いよ!それにそこまで分かり易くもないから。」 「オシャレさと分かり易さを追求した苦渋の決断よ。断腸の思いでこれで妥協するわ。」 「妥協というわりには、芹菜の提案したワードが二つともちゃっかり採用されてるじゃないか。」 結局、僕にもオシャレな分かり易い名前という難題の最適解が思い浮かばなかったので、部名は芹菜の案で可決された。 部活名・・・神戸マチエール地域活性化担当部 「次は顧問の先生と部員の確保ね。」 芹菜は晴れ晴れとした表情で、もう部活ができるのを確信しているようである。 「部員の最低人数は4人だっけか。」 「そうよ。そして顧問の先生についてはもう目処がたっているわ。」 「それは頼もしい。ちなみに誰?」 「物理の稗田先生よ。」 「えっ!?お前って物理嫌いじゃなかったけ?眠くなる授業って言ってたよね?」 「私にとってはね。説明が丁寧すぎるのよ。わかっていることを事細かに説明されるのはつまらないという他にないでしょう。だから別に稗田先生を嫌ってるとかはないわよ。」 そうなんだ。頭がいいというのも困ったものだな。ところで、稗田先生の方は芹菜に対してどう思ってるのだろう。 「もう稗田先生と話しはついてるの?」 「まだに決まってるじゃない。いまから職員室に突撃するわよ。」 「勝算はあるのか。」 「三割六分五輪ってところかしら。」 芹菜は素振りをするそぶりをしながら答えた。しかも、全く野球をしたことないくせに、なぜかメジャーリーガーに多いクラウチング打法である。 「打者としては驚異的な打率だけれども、それは少し勝算が低くないか。」 「無論、奥の手を隠しているわ。そして部員の勧誘についても、既に目ぼしい人材リストを作っていたりするのです。」 「すごいな。いつのまにそんなことしてたんだよ。」 「物理の授業中かしら。」 「稗田先生に一度きちんと謝罪するべきだ!」 「大樹はなんとしても、そのリストの中から二人以上入部させるのよ。」 先生に部活の顧問を頼む役割よりは、他の生徒に勧誘するほうが気が楽だと思ったのは大きな間違いであった。芹菜からリストを受け取ると、そこには十数名の名前が載っており、学校内でも奇人・変人で名が通っている人たちの名前も多く見受けられた。 「…本当にこの人たちを勧誘するの?」 「もちろん。それがあなたの部長としての初仕事よ。顧問の先生の方は私に任せときなさい。」 芹菜とは役割を分担し、彼女は職員室へと、僕は他のクラスへ勧誘へとそれぞれ分かれた。 同じ学年のクラスのみならず、上級生にも声をかけていった。芹菜は基本的に現在部活をやってない生徒をリストアップしたらしい。しかし、バイトや塾などの理由で断られ続け、残るは学校内でも名の知れた二人の名前が残った。   僕たちが通う神戸六藍高校は、県内でもトップレベルの学力を誇る進学校である。進学校といってもその学力差はピンからキリまであり、リストに残ったうちの一人は、中学の彼女の担任全員がなぜ合格できたのかと首をかしげるような、最下層に位置する花立七珠奈という女子生徒である。 僕のつたない言葉で彼女を説明するならば、同じ学年の女子生徒で、背は芹菜より少し小さく、ポンコツで、茶色のショートボブの髪で、ほとんどのことに知識、教養がなく、味覚が幼稚でカレーやラーメンが好きで、よく食べる割に痩せ形で、とてつもなくおバカさんで、そのくせ黒縁の眼鏡をかけていて、インテリに見えなくもない。何かとトラブルを巻き起こす花立七珠奈たが、彼女に悪意はなく、要するに一見すると、可愛らしいおバカさんといった感じで男子はからは人気があるようだ。 ただし彼女のおバカ加減を可愛らしいで済ますのも危ないようだ。家庭科の調理実習中に、フライパンから高さ5mの火柱をあげ、天井を焦がしたとか、理科の実験で顕微鏡の調節ねじを回す方向を間違え、レンズを割りまくっただとか、塩酸をもったままズッコケて理科の先生の頭皮に深い傷を与えたとか、中学時代は結構な損害を周りに与えてきたようだ。  色々とうわさをよく聞く彼女だが、僕は彼女と実際に話したことがない。事前情報だけで彼女へのステレオタイプをもつのも悪いだろう。  放課後、校門の前で彼女を待ち伏せした。5時を過ぎた頃、彼女が大量の荷物とともにとぼとぼと歩いてくるのが見えた。 「花立七珠奈さん!」 普段大人しい僕としては、珍しい大きな声で呼びかけた。 「はい?なんでしょうか?」 彼女は分かり易く首をかしげて、頭の上に疑問符を浮かべている。 「ちょっとだけ、話したいことがあるんだけど、そこの公園で話さない?」 「話したいこと………?もしかして!私のこと好きなんですか?告白ですか!?でもすみません。初対面の人とお付き合いするのはちょっと…。」 告白の「こ」の字も言ってないし、そんなつもりもないのだが、僕は秒で彼女に振られてしまった。花立七珠奈は、驚きと少し訝しむような眼をしながら一人騒いでいる。うわさ通り、話し方はまともそうだが、頭のネジが少し緩そうだ。 「いやいや、違うよ。大いなる誤解だ。僕はただ、部活のことでちょっと話がしたいだけだ。とりあえず荷物重そうだし、そこのベンチに座ろうよ。」 「そうなんですか?それは私、早とちりしちゃって、お恥ずかしい///。」 「それはそうと、その荷物はなんなの?」 彼女は学生カバンの他に、パンパンにはち切れそうな、大きな青色のビニール袋を二つ持っていた。 「これは…さっきまで家庭科部でポップコーンを作ってたんですけどね…。」 この学校には家庭科部なんて部活もあったのか。それは知らなかった。そして理由はわからないが、少し彼女の表情が暗くなった。 「私も家庭科部だったんですけどね、私はもうその部活は…辞めてきちゃいました。」 「…そうなんだ。差支えなければ、理由を聞いてもいいかな。」 「私はほんとにバカだから、いつも周りのみんなに迷惑をかけちゃって…。中学校まではみんなもそれを面白がって、笑って見てくれてたんだけど…。高校じゃ、みんなからの視線とか、陰でこそこそ言われてるのが気になっちゃって…。今日もたくさんポップコーンを爆散させてきちゃいましてね。これはその結果です。」 彼女の手にあるビニル袋の中を見せてもらうと、大量のポップコーンが入っており、バターの香りがふんわりと漂った。少しでも暗い気持ちを僕に与えないように、彼女は今にも壊れそうな作り笑いで、無理に明るく聞こえる声のトーンで、部活での自分への陰口や、確実にいじめに値するであろう部内で彼女が経験したことを語った。 「…そうなんだ。それは辛い思いをしてきたね。」 「違うんですよ。それは、私がドジでバカで…仕方ないんですよ。みんなは悪くないんです。それに私も慣れっこだから大丈夫です。だから…そんな顔しないでください!」 彼女は眼鏡を外し、制服の袖で目のあたりを軽くこすった。涙で袖が濡れて、色が少し濃く変わったのが分かった。 「すみません、暗い話しちゃって。陽気に笑ってふっとばします。」 眼鏡を掛けなおし、彼女は空を仰いだ。花立七珠奈の容姿は、眼鏡越しでもわかるほどに、かなり整っている。眼鏡を外すと、いっそう彼女の美しさは際立った。それもいじめられる一つの理由になったのかもしれない。彼女は本来は、天真爛漫で元気な明るい子なのだろう。しかし、今は自己肯定感が欠如してしまっている。人間は社会的な生物だから、誰しも自分が所属できる、安心できる場所を必要とする。だからこそ芹菜は、新たな部員として、花立七珠奈をリストに挙げたのかもしれない。 「よかったらなんだけど…。いや、ぜひとも、何としても。花立さんに、僕たちの部活に入ってほしいんだ。」 「えっ、部活に…私が?」 彼女は驚いた様子で、僕の言葉の意図を確かめるように尋ねた。 「でも、私は…私なんか…何も役に立たないし。ミスばっかりするし…、多分みんなから嫌われちゃうよ。」 「そんなことないさ。花立さんは、明るくて、ユニークで、素敵な人だと思うよ。もし時にドジをやらかすことがあったとしても、僕たちは絶対に君のことを嫌いにならない。」 「なんで…、そんなこと…。」 自信を無くした彼女に届くように、僕はつたない言葉を続ける。 「だって、僕だったら、嫌なことをされた相手のことなんて、大嫌いになるし、相手の悪口をいくらでも言うよ。でも君は、自分の辛い過去の話をするときでさえ、相手のことを一切悪くいわないし、僕に嫌な気持ちをさせないように、笑顔で、明るく、自分ひとりで耐えようとする…そんな優しい人を、僕たちは嫌いにはなれない。」 彼女ははっきりとした二重の眼で僕を見た。僕のつたない言葉だけれども、今まで辛抱強く、我慢して、耐え忍んでいた、そんな彼女の心の奥の琴線に届くことができたようだ。 「…ありがとう。…本当にありがとう!」 大粒の涙がぼろぼろと、彼女のほおを伝った。今まで堪えていたものが一気に開放されたのか、しばらくの間七珠奈の涙が留まることはなかった。彼女の心が落ち着くまで、僕たちは夏の夕焼けの差すベンチで、静かに二人で座っていた。 「気を取り直して、一年三組の花立七珠奈です。よろしくね!」 「一年一組の鈴城大樹だ。よろしく!」 花立七珠奈と話し始めた時、夕空はまだまだ明るかったが、結構な時間話し込んでしまったようだ。夏の夕空といえど、さすがにこれ以上話し込むと、闇が濃くなってしまう。 「今日のところはそろそろ帰ろうか。」 「そうですね。帰りましょうか!」 彼女がベンチから席をたった瞬間、七珠奈は足元の石に足を取られた。その反動で、僕らの周囲にポップコーンが散らばった。 「おっと、大丈夫か?」 彼女に手を差し伸べると、「ありがとうございます。」と言って、七珠奈は僕の手をとった。彼女にケガはなかったようだ。しかし、大丈夫じゃなかったのはこの後であった。大型台風が接近中の強風に揺れる林に飛び込んだように、僕らの周囲をバサバサと物凄い大量の羽音が取り囲んだ。多分外から僕らを観たら、無数の黒いものが蠢く、おぞましい塊のように見えただろう。大量の鳩とカラスが僕らの上に降り注いだ。 僕と七珠奈はなんとか、その黒い群衆の中から這い出した。 「えーっと…、いつもこんな感じなんだけど。……嫌いにならないでくださいね?」 七珠奈は、てへっと可愛らしく舌を出して笑った。僕は、彼女との今後に不安を感じなかったと言えば嘘になるが、「こんなことで嫌いにならないよ。」と答えて、彼女を神鉄長田駅まで見送った。 我が「神戸マチエール地域活性化担当部」に…、これやっぱり名前が長いな。「神戸マチエール」に入部してくれる部員が一人決まった。これで現状の部員は僕と、芹菜、七珠奈の三人。あと一人で部を設立できる部員がそろう。その日は夏の一日の終わりに相応しい、晴れやかな心地よい夕暮れだった。 先日の出来事を芹菜に説明すると、「さすが大樹、ちゃんと彼女を入部させてくれて嬉しいわ。」とほほ笑んだ。彼女が家庭科部で受けた仕打ちの詳細については、別に語る必要もないと思って芹菜にも伝えなかったが、彼女が家庭科部を辞めたという話をした際に、芹菜は「…よかった。」と小さく呟いた。芹菜は、七珠奈の家庭科部での立場や境遇について知っていたのだろうか。 顧問の件の進捗状況はどうなっているのかと尋ねると、「そちらも順調よ。大樹は部員確保に専念して、あともう一人誰かをたぶらかしてきて。」と返された。 「そんな悪徳商法のような、もしくは遊び人のような言い方はやめてくれ。彼女の説得において、僕は何も嘘をついてないし、決してたぶらかしてなどいない。」 そう憤慨すると、「ごめんなさい。私としたことが、大樹が他の女の子と仲良くしてるのに、ちょっと嫉妬しちゃったのかしらね。」と芹菜はからかうように言った。 芹菜は基本、僕に対して悪意のこもった嘘はつかない。僕に対して嫉妬したというのは、もしかしたら、本当に嫉妬してくれたのかもしれない…そう思うと少し晴れやかな気持ちになった。しかし、ただからかっただけにも思えるので、僕は困った顔で「まぁ顧問の件も頑張ってくれ。」とだけ返して教室の席をたった。芹菜が順調だというからには、顧問の件は順調であることに間違いはないのだろう。 何はともあれ、必要な部員は残り一人。そしてその一人もなかなかの曲者である。 彼女の名前は萩原千鶴。僕のつたない言葉で彼女をあらわすと、僕と同じクラスの、背は芹菜と同じくらいか少し高いくらいで、墨汁で塗ったような艶のある長い黒髪で、前髪が長く、あまり人と関わらず、授業が終わるとすぐ帰ってしまうような、クールな女の子である。同じクラスだが、ほとんど話をしたことがなく、僕の説明がより一層顕著につたなく聞こえるほど、彼女に関する情報は少ない。  当の彼女はというと、今日は学校を欠席しているようだ。休み時間に担任の先生に、萩原千鶴の欠席の理由を聞きに行った。担任の話によると、どうやら夏風邪を引いてしまったらしい。 「お見舞いにいきたいんで、千鶴さんの住所を教えてもらっていいですか。」 そう尋ねると、「お前らそんな仲良かったか?」と訝しがられたが、「ついでにこのプリント持って行ってくれ。」と頼まれ、住所を教えてもらった。  住所をグーグルマップに入力し、コンビニで買った手土産とともに、彼女の自宅へと向かう。彼女の家は、元町商店街の近く…というか、商店街のアーケードの中であった。 “目的地付近に到着しました。案内を終了します。” 僕のナビがそう言い放ったが、本当にここであっているのだろうか。どう見ても、ここは神戸の和菓子の伝統ある老舗であった。 店の長い伝統を感じさせる入口の木製の扉は、長い時間で研磨され、あまり力を入れなくとも滑らかに開いた。 「いらっしゃいませ。」 美しい和菓子が並ぶショーケースの奥には、若い店員と、萩原千鶴のお母さんらしき人物がいた。 「萩原さんって方はいらっしゃいますでしょうか。」 若い店員にそう尋ねると、奥の方にいたお母さんらしき人物が、振り返って答えてくれた。 「はい、萩原は私ですよ。この家の二階が萩原家で、一階がお店を兼ねてるんですけどね。」 萩原千鶴のお母さんは、僕の制服を見て、娘と同じ学校の生徒だと気づいたらしい。 「あら、もしかして娘のお友達?それともボーイフレンドかしら?」 娘とは打って変わって、人当たりのいいユニークなお母さんである。すると、ボーイフレンドという単語を聞き取ってか、店の奥で和菓子をこしらえていた萩原千鶴の父親らしき人物が駆け寄ってきた。 「どこのどいつが千鶴のボーイフレンドだって!?お前か!?」 今にも沸騰する赤いやかんのような顔をして、萩原千鶴の父親があらわれた。 「いやいや、違いますよ!落ち着いてください。僕はただの千鶴さんのクラスメートです。」 「お父さんがそんなんだから、千鶴もいい年なのに、ボーイフレンドの一人も連れてこないんですよ。」 「ボーイフレンドなんぞ連れてこなくていいわ。」 「もうまたそんなこと言って、千鶴に嫌われても知りませんよ。」 萩原夫妻がなにやら言い合っている。若い店員はいつものことだというように、それを脇目に品出しを始めた。 「それで、千鶴は学校では上手くやってるのか。あいつはあんまり学校の話をせんからわからん。」 萩原父の視線がこちらに向いてるのに気づき、その質問が自分に向けられているのだとわかった。さて…なんて答えたらよいものか。正直、いつも一人で過ごしている彼女は、あまりクラスで上手くやっているようには見えない。しかし、それをそのまま答えるのはあまりに不躾で、千鶴本人にも申し訳ない。 「お父さんが心配しなくても、千鶴さんは大丈夫ですよ。僕以外にも、彼女と仲良くなりたいって言っている友達がいます。彼らはちょっと別の予定があって、今日は来られないんですが、僕だけでも、千鶴さんのお見舞いと、学校のプリントを届けにきました。」 「あらあら、そうだったのね。ありがとう。さあさあ、中に上がってちょうだい。」 萩原母に手招きされて、店の奥へ進む。萩原父の横を通り過ぎようとしたとき、「…本当は娘に友達はいなくて、学校でも上手くいってないんだろう。」と囁かれた。流石娘のことはお見通しというわけか…。父親の天眼通に思わずドキッとしたが、その後、「娘と仲良くしてやってくれ。」と萩原父は小声で言葉を続けた。僕は「もちろんです。」と小さく答えた。 「あと、お前にお父さんとよばれる筋合いはない。」とベタなセリフを、最後に力強く告げられた。この年でそんな台詞を言われるとは…、僕は「すみません。」と謝り、この手垢のついたやり取りを終わらせた。 二階に上がると、小奇麗な一階とは打って変わって、生活感のあるリビングに案内された。「千鶴の部屋はこの先だから…あとは若いお二人で。」 そう僕に告げると、謎の含み笑いを浮かべて、萩原母は一階に戻っていった。 彼女の部屋に続くクリーム色の扉は、角の色が少し剥げかけて、水色が見えている。古くなっても繰り返し何度も塗りなおされてきたのだろう。以前は水色であったであろうドアを三回たたく。トントントン。海外では親しい間柄の友人の家を尋ねる際は、ノックは三回という習慣らしい。ちなみに二回はトイレをノックする際に使われる。 「…おかあさん?」 熱に浮かされた弱々しい声が聞こえた。 「こんにちは。クラスメートの鈴城大樹です。開けてもいいかな。」 「……えっ。……はぁ!?」 ドアを開けようとすると、三分の一程開いたところで、ドタバタと音が聞こえ、扉は全然動かなくった。ドアの向こうで萩原千鶴が開けさせまいと抑えているらしい。 「抑えられると開けられないんだが。」 「開けられたら困るから抑えてんでしょうが!」 「何が困るっていうんだ。君と僕のなかじゃないか。」 「どんな仲だっていうのよ。学校でも二、三回しか喋ったことないでしょ!」 僕の覚えている限りでは、学校ではそれこそ僕が、彼女にプリントを渡した際に、「はい。」「…ありがとう。」、という会話と、「次移動教室どこだっけ。」「…音楽室。」という会話だけである。しかし、彼女との距離を一気に縮めるには、ここは僕が道化を演じるのがベストだろう。 「思いっきり部屋着だし、それに汗かいてるから。」 「そんなこと僕は気にしないよ。」 「私が気にするのよ。バカ!」 思い切りドアを閉められ、カチッとロックがかかる音がした。学校で話をするよりも、意外と彼女は話しやすそうである。 数分後、急いで着替えたらしい彼女がロックを外して、僕を部屋に招き入れた。 「はじめまして。変態さん。一体何のようかしら。」 「これしきのことで変態よばわりされるとは、世間も生きづらくなったもんだ。」 「あなたデリカシーないとか言われない?」 「僕ほど節度をもった男は珍しいと思うよ。」 「呆れた。っで、なんのよう?」 小さな水色の丸テーブルを囲んで、僕と萩原千鶴は対面する形で座った。彼女の部屋全体は片付いているが、ベッドの横のスペースには、クマのぬいぐるみやカメラの三脚のようなものがごちゃごちゃに押し込められている。おそらく思わぬ来訪者に、咄嗟に散らかっていたものを押し込めたのであろう。ベッドの隅に、先ほどまで彼女が着ていたであろう、ショートパンツを発見した。なんとなく見てはいけないような気がして、すぐに目をそらし、彼女の方を見た。彼女は今やしっかりガードの固い、色気もくそもない学校の紺色ジャージ姿に変貌している。彼女のほおはリンゴのように紅く火照っていた。やはり風邪で寝込んでいたようだ。 「今日は千鶴さんのお見舞いに参上しました。」 「私の記憶が確かだと、私とあなたはそんな間柄じゃないと思うのだけど。」 「なんてことだ。ハンバーグプレートに、バターコーンと人参のグラッセがいつも一緒なように、僕たちはいつも一緒だったじゃないか。」 「詩人でも目指してんの?気持ち悪いし、向いてないから辞めた方がいいわ。」 芹菜を怒らせたときと、同じくらいかそれ以上に辛辣である。 「まぁまぁ、確かにお見舞いは建前だ。腹をわって話そうじゃないか。」 「あなたに割るような腹はないわ。要件だけ伝えてさっさと帰ってくれる。」 「僕らの担任から、大事なプリントを渡すように預かったんだ。はい、どうぞ。」 「えっ、それをわざわざ…。ありがとう。申し訳ない態度を取っちゃったわね。もっと早く言ってくれたらいいのに。」 先ほどまでとは、打って変わって萩原千鶴はしゅんっとなった。いやいや、それも確かに要件の一つだが、僕にとってそれはおまけのような用事である。そんな態度を取られると逆に申し訳ない。 「実はそれも建前で、僕にはもう一つ要件がある。」 「えっ?まだ何かあんの?」 萩原千鶴は、また僕に対して少し警戒するような視線を送った。僕は咳ばらいをして、今日ここまで足を運んだ一番の要件を述べた。 「僕たちの部活に、部員として入部してくれないか。」 「……はい?」 こういった反応にも、もう慣れたものである。そもそも僕が芹菜に、一緒に部活を作ろうと告げられた時も、きっと同じような反応だっただろう。さて、すんなり入ると言ってくれればいいが、そうはいかないだろう。ここからが僕の腕の見せ所になる。 「僕たちは今、神戸という町を応援する部活を作ろうとしている。その名も神戸マチエール。いわば町おこしだよ。」 萩原千鶴は、未だあっけに取られているようだ。構わず僕はつたない言葉を続ける。 「神戸という町には、たくさんの素敵な歴史や文化がある。多くの出土品が発掘された巨大な五色塚古墳に、彼の行基も訪れたという有馬温泉など、日本らしい文化をしっかり根底に持ち、なおかつ平清盛が大和田の泊で日宋貿易を始めた頃から、多くの海外の文化が入り混じり、北野異人館や南京町といったエキゾチックな異国情緒溢れる街並みも併せ持つ。そして六甲山を挟んで、ポートタワーがそびえ立つハーバーランドなど、海側の美しい港の街並みと、山側のハーブ園や六甲山牧場などの美しい田園風景。神戸には山ほどみんなに紹介したい魅力が溢れている。」 僕がつらつらと話終えると、千鶴は少し興味をもったような表情に変わっていた。 「神戸の魅力をPRするって言ったっけ。神戸の町の良さについては、神戸っ子の私だってよく知ってるよ。でも、それをどうやってPRしていくっていうのさ。」 「今のインターネットの時代、多くのSNSが溢れている。それらを駆使していくのはもちろんだが、特に僕たちは神戸の魅力をPRする手段として、動画に力を入れたいと思っている。」 「…動画か。それはいいな、面白そうだ。」 僕は萩原千鶴に関する重大な秘密の一つにたどり着いた。顔の表情がよく見えない程の長い前髪。友達付き合いが悪く、放課後いつもすぐに帰宅するということ、ベッドの隅に押し込められたカメラの三脚らしきもの。そして今の反応…。 「君って…もしかして、YOUTUBERなの?」 萩原千鶴の火照ったほおが、生田神社の鳥居のように、さらに鮮やかな褐色になった。彼女の焦点があっていない。あまりの恥ずかしさと、もともとの体調不良により、彼女は某ぷよぷよしたパズルゲームの主人公の如く、ばたんきゅーと倒れた。   二時間ほど経過しただろうか。ベッドで深く寝息をたてる萩原千鶴の横に座って看病していたが、安らかに眠る彼女を見て、安心して自分もうとうとしてしまっていた。 彼女が倒れた後、さすがに僕も慌てた。急いで下に降り、萩原夫妻を呼びにいき、萩原父と一緒に彼女をベッドの上に寝かしつけた。救急車を呼んだ方がいいかと焦る母親に対し、熱が急にあがったことが原因だろうと、父は落ち着いた様子で冷熱シートを張り替え、体の太い血管が流れるところに冷たい濡れタオルを挟んだ。 「なんか急に熱が上がるようなことでも言ったのか?」 萩原父がじろりとこちらを睨んだ。 「いや、特に何も変なことは…。この命に誓ってしてないです。」 「まぁ、お前もこいつの…動画の趣味かなんだか知らんが、それに気づいたってところか?」 萩原父は、彼女がYOUTUBERであることを知っているのだろうか。 「親父さんは、…知ってたんですか。」 「千鶴が俺に隠して、なんかこそこそと部屋でやってるのは知ってたよ。そして小遣いを貯めて高いカメラを買ったのも知っている。あとこないだこんな本がリビングに置いてあった。」 萩原父は、ガラケーのカメラ機能で、リビングのソファに置かれていたというその本を写真に収めていた。 “めざせ!トップYOUTUBER!!~ネット動画で人気者になる方法~” 「あちゃー。これはもう、言い訳のしようもないですね。」 「本人は隠したいらしいから、俺も見て見ぬ振りを続けているけどな。」 「ちなみにお母さんの方は?」 「俺が知っていて、母親が知らないわけがないだろう。」 それもそうか。もし母親が動画の件を知らないなら、僕が最初にノックした瞬間に、相手が母親かどうか確かめる間もなく、急いでカメラの機材を片づけているはずだ。 「お父さん、この子…。将来お店を継ぐか、動画に関する仕事に就くかどうか悩んでるみたいよ。」 それもそうだろう。彼女は、動画の撮影や編集作業にのめり込んでいるのだ。それこそ、授業が終わればすぐに帰宅し、青春ハイスクールライフを切り捨てて熱中するほどに…。 「そんなのこいつの好きにしたらいいさ。」 「だったら、目が覚めたら時、この子に言ってあげなさいよ。」 「千鶴はそもそも、俺が千鶴の動画の件を知らないって思ってんだぞ。…それに、もし本当に覚悟をもって、映像の道に進みたいって思ったのなら、その時に、直接こいつから俺に話してくるさ。」 素敵な家族だなと思った。母の娘を気遣い、心から思うやさしさ。父の緊急時でも慌てない強さ、娘の願いを受け止める懐の深さ。 萩原千鶴が心地よさそうに寝息をたて始めた頃、若い店員が、一人じゃ店が回らないとSOSを求めてきた。「あとは頼むわね。何かあったらすぐ呼んで。」と萩原夫妻は一階に降りて行った。 「っんー。…あれ?私いつの間にか、寝ちゃってた。」 萩原千鶴は大きな伸びをして目を覚ました。 「おはよう。気分はどうだ?」 「もしかして看病してくれてたの?…ありがとう。」 看病といっても、おでこの上の濡れタオルを取り換えていただけだ。いつもは長い前髪であまり彼女の顔の作りを意識したことはなかったが、タオルを取り換えるために彼女の前髪を持ち上げると、千鶴の整った目鼻顔だちがよく見えた。 「なにか冷たい物でも食べるか?」 コンビニで買ってきたプリンやゼリーを机に広げると、千鶴は「プリンが食べたい」と、風邪をひいて親に甘える幼い子どものような表情で呟いた。彼女はベッドの上でプリンを、僕はその傍でゼリーを一緒に食べる。 「あのことは…学校のみんなには、内緒にしてほしい。」 「あのことって?」 無論あのことが何を指すのか百も承知だが、僕は意地悪く千鶴に尋ねた。 「…動画のことよ。」 「大丈夫だよ。このことは俺と千鶴の二人の秘密だ。ところで部員勧誘の件なんだけど…。」 「わかったわよ!入ればいいんでしょ!いじわるっ!!」 「そんな言い方をされると、まるで僕が脅迫したようで心外だな。僕たちの部活は動画でPRするのがメインになるって言っただろ。思う存分動画の撮影や編集に力を注いでくれていいし、僕たちも千鶴の動画に関する知識や技術と、その熱意に大いに期待している。」 僕のつたない言葉に、千鶴はまんざらでもないような表情である。 「確かに動画の撮影や編集ができるなら、それも悪くないもね。わかったわ。その神戸…なんだっけ。」 「神戸マチエール。正式名称は神戸マチエール地域活性化担当部。」 「なんか奇妙なネーミングの部活ね。入ってあげるわ。」 「この名前つけた人のセンスは、なかなか奇天烈だからね。」 すると、僕のスマホのバイブレータが鳴った。通知をみると芹菜からのメッセージである。 “部員勧誘は順調かしら。なにか私の悪口を言われたような気がして、ついメッセージしちゃったのだけれど、大樹に限ってそんなことはないわよね。” 僕の身体に盗聴器でも仕込まれてるんじゃないだろうか。身体全身をチェックしたが、それらしきものは見つからなかった。 「どうしたの…?大丈夫?」 心配そうな顔で、長い前髪の間から千鶴が見つめる。 「あぁ、大丈夫だよ。僕は人の悪口なんて言ってないよね。」 「うん、多分言ってないと思うけど…。」 内心穏やかではなかったが、悟られまいと芹菜に返信を返した。 “もちろんだよ。僕が今まで君の悪口を言ったことがあったかい?そんなことより、ちょうど今、萩原千鶴が入部してくれるって言ってくれた。これで4人揃った。” 返信を返し終わると、息つく間もなく、またすぐ芹菜からのメッセージが入った。 “それは素晴らしいわね!Σ(゚Д゚)こっちも顧問の説得を終えたところよ。明日全員で…、千鶴さんの体調がよければだけれど、部の設立願いを出しに行きましょう!(*^▽^*)” やけに顔文字の多い返信が届いた。部活が設立できることがよほど嬉しいらしい。テンションが高いとき、やたらと芹菜は絵文字や顔文字を使いたがる。 「明日、部の設立届を出しに行くってさ。千鶴も体調がよかったら、一緒に行こうな。」 「わかった。今日はゆっくり休んで治療に専念するよ。」 萩原夫婦に挨拶をし、元町商店街をあとにする。すっかり暗くなってしまった大丸前には、仕事帰りのサラリーマンや若い大学生くらいのカップルが多く歩いていた。僕の家は神戸の北区なので、ここから一時間近くかかってしまう。北神急行に乗る前に、妹に先に飯を食べておくようにメッセージを送った。 センター街を歩き、三宮に着いた。先ほどゼリーを食べ、胃が動き出したせいで余計にお腹が減ったように感じる。駅前にある、鳴門金時のあんが美味しいタイ焼きを買おうかと迷ったが、妹から「今日は私がオムライス作るから、早く帰ってきて一緒にたべよう。」という旨のメールに気づいたので、そのまま通り過ぎ北神急行に乗った。 家に着くと、僕の妹、鈴城涼音がエプロン姿で出迎えてくれた。僕のつたない言葉で僕の妹を説明すると、僕の一つ年下、つまり今中学3年生の妹で、甘え上手で、背は低く、料理が好きで、両親の帰りが遅い日はご飯を作ってくれ、僕と比べると人によくなつく、機嫌が悪くても甘いおやつを与えればわりと直る、かばんには抹茶味のポッキーを常に常備し、正真正銘ちゃんと血のつながった兄弟である。 「今日は遅かったね。何してたの?」 「ちょっと知り合いのお見舞いに行ってた。」 「お見舞いって…その友達、大きなケガでもしちゃったの?」 「いや、単なる風邪だよ。」 「高校生って、風邪ひいたくらいで、お見舞いする文化があるの?」 「高校生の間じゃ、お見舞いが流行ってんだよ。ブームだよ。凉音たちが特に意味もなくタピオカ飲んでるのと一緒。知らんけど。」 「もう!適当なことばっかり言って。せっかく作ったから、冷めないうちに早く食べちゃってよ。」 年々、凉音は母親に性格が似てきたなと思う。逆に僕は、凉音と母親から、父親に性格や見た目が似てきただとか、おっさん臭くなったとか言われる。父は僕よりも無口で、あまり似ているとは思わないのだけれども。 「ご馳走様でした。」 「お粗末さまでした。」 皿を洗いながら、とりとめない話題を投げかけた。 「最近中学校はどんな感じだ?」 「普通だよ。」 「受験勉強の方は?」 「ぼちぼちかな。」 「……。」 “普通”という返し言葉は、この世で最も忌むべき言葉だと誰かが言っていた気持ちがよくわかる。世の中の父親は、年頃の娘と会話するのに苦労してんだなっとしみじみ感じた。 「そうえば、部活に入ることになりそうだから、これから帰り遅くなることが増えるかも。」 「そうなんだ。何の部活?」 「うーん、説明するのが難しいんだけどな…。」 「また芹菜ちゃんの思い付き?」 「まぁそんなところだ。」 芹菜と僕と凉音は、昔からよく一緒に遊んでいた。中学の部活でも、芹菜と凉音は同じ吹奏楽部であった。彼らには先輩、後輩としての付き合いがあり、僕の知らないところで、僕の恥ずかしいエピソードを話題に、仲良くしていたらしい。 「芹菜ちゃんもきっと、遊びたいお年頃なのよ。」 「女子高生ってそんなもんなのか?」 「女子高生の間じゃそんなものよ。ブームよ。お兄ちゃんたちが、しょーもないスマホゲームで遊んでるのと一緒。知らんけど。」 「……。」 こんなんでも、年の近い妹と兄の関係としては、きっと仲がいい方だろう。多分…そう思いたい。 「風呂はいってくる。」 「お父さんたち、今日はかなり遅くなるらしいから、お兄ちゃん入ったらもう流しちゃっていいよ。」 「凉音はもう入ったのか?」 「熱々にして一番風呂いただいちゃいました。」 「熱い湯が好きだな。」 「江戸っ子だからね。」 「生まれも育ちも神戸っ子だろ。」 凉音は笑いながら、我が鈴城家のアイドルこと、トイプードルの愛犬マロとじゃれ合っている。 「マロは今日もかわいいねー。」 マロは迷惑そうに足をだらしなく伸ばしながらも、凉音にぐしゃぐしゃと撫でられるのに抵抗はしない。発情期に、父の脚にしがみついて腰を振るしぐさをすること以外は、全く持って賢い犬である。  シャワーを浴びて、自室のベッドに横になる。明日はいよいよ部活の設立か。僕は全員と面識があるけれど、芹菜も七珠奈も千鶴も、お互いのことは顔見知り程度だろう。明日が一応の初顔合わせということになるのか。ここは部長として、僕が音頭をとって、全員の自己紹介の場をとった方がいいのかな…そんなことを考えながら、夏虫の心地よい音色に眠気に誘われた。  翌日の授業が終わった放課後、芹菜、七珠奈、千鶴の三人を1年1組の教室に集め、まずはそれぞれの自己紹介をすることになった。小学校の時の給食のように、机を四つくっつけて、各々座った。一応部長として、僕がこの集まりを仕切る。 「えー、今日はご多忙の中、お集まりいただきありがとうございます。」 「…そういうのはいいから。とりあえず、一人ずつ自己紹介しましょう。」 僕が場を仕切ったのは5秒程度で、仕切り役は芹菜に変わった。 「まずは私から自己紹介させてもらうわね。1年1組四辻芹菜です。隣の鈴城大樹とは幼馴染で、この部活の設立者です。みなさんが部への入部を決めてくれたこと、心から嬉しく思うわ。好きな食べ物はチョコドーナツとベーグル。最近の趣味は外で遊ぶことと大樹をからかうことかしら。何か質問はある?」 「もっといい趣味を見つけたらどうだ?」 「私もそれなりに長く生きてきたけれど、これ以上に楽しい趣味を見つけるのは難しいわね。」 「っはい!質問いいでしょうか。」 「何かしら。花立さん。」 「七珠奈でいいですよ!ちなみに、この部活は何をする部活なんですか?」 芹菜はそんなことも説明していなかったの?という目で僕の方を見た。いや、説明する暇がなかったのだという言い訳もむなしく、芹菜が部の活動内容を簡潔に説明した。 「私たちは、神戸という町の、様々なアクティビティや自然、伝統文化などを体験し、この町のよさを発信していく活動をする部活よ。」 「なるほど。初めて知りました。」 朗らかに笑う七珠奈。彼女にとっては、あまり活動内容はどうでもいいのだろう。彼女が必要なのは、求めているのは、とにかく安らぎ、憩いの場となる場所と、彼女を受け止めてくれる仲間なのだろう。 「っじゃあ次は、私がいきますね!」 七珠奈が勢いよく立ち上がり、椅子が思い切り後ろに倒れた。 「あわあわ…。すみません。私本当におっちょこちょいで。」 倒れた椅子を戻し、七珠奈は眼鏡をくいっと掛けなおした。 「1年3組の花立七珠奈です。最初に…、えっと、わたし本当にドジで、これからたくさん迷惑をかけてしまうと思うのですが、一生懸命頑張りますのでどうか、仲良くしてください。」 七珠奈は少しあがり症らしい。彼女の頬はチークを塗ったように紅潮していた。芹菜も千鶴も、七珠奈への応援を込めたやさしい視線を送っている。 「趣味はカフェ巡りと写真撮影です。好きな食べ物はカレーとラーメンとハンバーグと、中華料理も好きだし…いっぱいあって困っちゃうな。あーあと、白い大きなわんちゃんとか、ふわふわのうさぎが好きです。よろしくお願いします。」 彼女は白い大きなわんちゃんや、ふわふわのうさぎを食べるのだろうか。好きな食べ物から好きな物へと、いつの間にか本人も無意識に、彼女の話は変わっていた。 「次は私が喋ってもいいかな。」 今までまだ口を開いてなかった千鶴が、挙手をして自己紹介を始めた。 「1年1組の萩原千鶴だ。好きな食べ物は、和菓子と和食料理一般だ。趣味は…動画の撮影や編集をしたりしている。」 千鶴とは昨日メールで、自己紹介の際に、同じ部のメンバーにだけは、動画の編集をしたり、撮影をしたりしていることを打ち明けてもいいんじゃないかと提案した。部のメンバーにまで色々と秘密を抱えたままだと、後々彼女がしんどくなるかもしれないことを思ってである。千鶴は少し難色の色を示したが、ずっと隠したまま過ごすよりは楽かもしれない、と僕の提案を受け入れた。 「それはいいわね。動画の撮影や編集に精通している人がいると、とても心強いわ。」 「動画の編集ですか!かっこいいですね!」 芹菜の言葉に七珠奈が呼応する。二人の反応に、千鶴はほっとした表情を浮かべている。 「ただ、私の趣味が動画関連だってことは、他の人には言わないでほしいんだ。」 「えっ!どうしてですか?」 七珠奈が首をかしげる。 「中にはいろいろと偏見を持つ人もいるからだ。」 僕が付け足すと、それに芹菜も続いた。 「確かに、この世の中には、人の趣味や振る舞いに対して、難癖をつけようとする人もいるわ。」 芹菜は、千鶴と七珠奈の二人の方に目をやり、その続きを語る。 「でも少なからず、私はその人の好きな物や大切にしていることを尊重するし、また人が一生懸命頑張っているという事実に対して、賞賛の想いを持って受け止めたいと思っているわ。」 芹菜の今の言葉には、千鶴だけでなく、七珠奈へのメッセージも込められていたのだろう。一生懸命頑張っていることを賞賛する。つまり、七珠奈がドジをしたり、頑張った結果失敗しても、すべてを受け入れるということを。 「もし、あなたがそのことを秘密にしたいというのなら、この身をもってあなたの秘密は守り通すわ。っね?七珠奈?」 「もちろんですよ!」 芹菜と七珠奈は微笑みながら千鶴を見つめた。 「最後は、僕の自己紹介だな。」 椅子を引いて立ち上がり、律儀に椅子をちゃんと閉まってから僕はつたない言葉で自己を語った。 「一年一組の鈴城大樹だ。そして、この神戸マチエール地域活性化担当部の部長だ!」 部の設立は、きちんと条件が満たされていたこと。そして芹菜と僕で考えたスローガンが功を奏し、すんなりと受理された。学期末の前だから、先生たちも忙しくてあまり深く考えなかったという可能性もあるが。最近のニュースでは、日々最高気温がどこどこで記録されたという、夏真っ盛りのような日が続く。 七月の初旬、第一週の土曜日。今日は記念すべき、第一回目の神戸マチエールの野外活動である。僕らの目指す目的地は、我が町神戸を、南北に仕切るようにそびえ立つ『六甲山』であった。 朝の7時半にJR六甲駅に集合し、六甲ケーブルに乗った。六甲ケーブルは、鮮やかな赤と緑が美しい車両の「クラシックタイプ」と、阪神電車旧1形車と旧神戸市電をイメージした「レトロタイプ」の二編成に分かれる。下駅から、六甲山上駅までは約十分ほど、小鳥のさえずりや小川のせせらぎが聞こえ、なんとも優雅な気持ちになる。上駅で下車したのち、僕らは今、山の頂上を目指して、緩やかな山道を上っている。 虫かごを斜めに下げ、虫捕り網を抱えながら、先頭を行く芹菜はにこやかな表情で山を登っている。その後ろに続く七珠奈も、色鮮やかな蝶やセミ等の虫を見つける度に、ハイテンションで捕獲を試みていた。そして、僕の真後ろにぴったりくっつきながら、千鶴は周囲を恐々と見渡しながらついてきている。『六甲山』という目的地が決まったのは、先週の部内会議に遡る。 「虫捕りがしたいわ!」 また妙なことを芹菜が言い出した。部の設立に際して、本来は各部、部室があてがわれるのだが、あいにく今部室はいっぱいらしく、現状は一年一組の教室を、放課後部室代わりに使ってもよいと、顧問の稗田先生から言い渡された。 机を小学校の給食を食べる時のように並べる。黒板に近い窓際に芹菜、後ろの掲示板に近い窓際を僕、黒板に近い廊下側を七珠奈、掲示板に近い廊下側を千鶴が陣取り、それが定位置になりつつあった。 「なんで虫採りなんだよ。」 「夏に外で遊ぶっていったら、虫捕りしかないでしょ。」 芹菜は産まれてすぐ、先天性の心室中隔欠損と診断され、幼いころはあまり外で遊ぶことができなかった。それが完治した今、外で子どもらしく遊ぶことに、強い憧れを抱く気持ちも分からんではない。 「ちなみにこの中で、虫が苦手な人?」 僕が声をかけると、千鶴がおずおずと手をあげた。 「千鶴だけか?言い出しっぺの芹菜は平気なのだとして。七珠奈は平気なのか。」 「私は全然平気ですよ。大樹さんは大丈夫なんですか?」 「僕はほら、北区の田園風景の中で育ったからね。…ということは、千鶴が賛成してくれたら、虫取りをしても構わないのだけれど…。」 全員の視線が千鶴に注がれた。千鶴は書記係として、ラップトップを机の上に広げ、議事録を取る担当である。彼女はラップトップの画面の後ろに隠れるようにしながら、異議を唱えた。 「…待ってくれ!そもそもこの部は、神戸のいいところをPRしていく部活だろ?それなら第一回目の野外活動が、虫採りってのはどうかと思うぞ。」 「確かに千鶴の意見は御もっともね。」 芹菜は、自分たちの掲げたスローガンを読み上げた。 「神戸という町の、様々なアクティビティや自然、伝統文化などを体験し、この町のよさを発信していく活動をする部活ってのがこの部の目的ね。それなら、目的地は六甲山牧場。目的地までは六甲山をハイキングしながら虫捕りをするというのはどうかしら。」 芹菜は、どうしても虫採りをしたいらしい。千鶴はなおも物言いたげな表情だったが、反論するいい理由を見つけられなかったらしく、部内会議はお開きとなった。 芹菜と七珠奈が蝶やセミを捕獲し、一息ついたところで、どうでもいい会話を振ってみた。 「ところで、虫採りって、漢字ではどう書くのが正しいのかな。」 取る・採る・捕る、一体どれが正しい表記なんだろうか。 「目的によって変わるんじゃない?虫を取得する、虫を捕獲する、虫を採集する、一般的には虫を採集するのが目的だから、『虫採り』ね。でも、私にとっては、とにかく虫を捕獲することが目的だから、『虫捕り』が正解ね。」 「なるほど。さすが芹菜さんは博学ですね!」 七珠奈は基本、誰に対しても敬語を使う。ため口でいいと言ったのだが、昔からその話し方が板についているらしい。 「…もう虫捕りはいいんじゃないか?」 意気揚々と前を行く二人に対し、僕のすぐ後ろから千鶴が意見した。 「そうね。でも、まだカブトムシやクワガタを捕まえてないわ。」 芹菜は千鶴の意見をばっさりと切り捨てた。カブトムシかクワガタを捕まえないことには、彼女の気は済まないようだ。それに七珠奈が付け加える。 「そうですよ!虫捕りの主役。ポ○モンで言うとこのピ○チュウ、妖怪でいうジ○ニャンを捕まえないと終われないですよね!」 「稚拙な例えをするために、わざわざ言葉を伏せないと駄目なワードは使わないでくれ!」 「ディ○ニーで言う、ミッ○ーとかですか?」 「もっと駄目だよ!そもそもそいつは捕獲しちゃ駄目だ。」 今日一日は千鶴がこんな調子だから、僕一人で突っ込みに回るはめになりそうだ。ついでに、男より可愛い女子高生が映っている方がいいだろうということで、基本的なビデオカメラの撮影も僕が担当することになった。写真撮影は、カメラが趣味の七珠奈が担当し、芹菜は一番多くカメラに映り、進行役といったところか、千鶴には予備のカメラを持たしているが、帰宅後の動画編集で大いに活躍してもらうとしよう。 「そうはいっても、そんな簡単にカブトムシやクワガタは見つからないんじゃないか?」 僕が尋ねると、白いワンピースに黄色いカーディガンを羽織り、麦わら帽子を被った芹菜がこちらを振り向いて答えた。 「心配しなくても、ちゃんとカブト、クワガタムシを捕獲する作戦はあるわよ。」 「さすが芹菜さん!どんな作戦なんですか?」 「クヌギの木がそこら辺に生えてるでしょ。その木を思い切り蹴るのよ。昼間、クヌギの木の上で寝てる彼らは、木が揺れた振動を鳥などの天敵に襲われたと勘違いして、死んだふりをしながらころっと落ちてくるのよ。」 僕もその知識は子どもの頃、父から学んだ。しかし、知っていることと、実践できるのは異なる。芹菜は近くのクヌギの木に狙いを定めた。僕ら四人が、ぎゅっと抱き合ったぐらいの幹の太さの木である。とてもか弱い、彼女の小枝のような足では、びくともしないだろう。芹菜は何度もクヌギの木に、ローキックを浴びせたが、当然アリの一匹すらも振ってこない。 「あれ?…おかしいわね。」 男の中では、中の上くらいの僕の脚力でもおそらく厳しいだろう。芹菜がぜぇぜぇと息を切らし始めた頃、僕らの後方から「私に任せてください!」と七珠奈の声が聞こえた。 「お前の脚力でも無理だって。」 七珠奈の方を振り返り、目を見張った。彼女は一人ではなかった。彼女は後ろに、左から、スタローン、シュワちゃん、ブルースリーのような屈強な体格の外国人3人を引き連れていた。 「この三人どこで拾ってきた?ちゃんと元の場所に戻してきなさい。」 「…なかなか国際色豊かね。」 「彼らも神戸観光に来たらしいですよ。神戸はやっぱり人気みたいですね。」 七珠奈は、芹菜の傍にあるクヌギの木を指さして、「Kill that tree!!!!」と叫んだ。 「おいっ!っちょっと待て!!」 僕の制止もむなしく、屈強な三人はクヌギの木に全力の蹴りを叩き込んだ。ドーンという大砲のような音が六甲山に響く。一瞬の静けさの後、夕立の降り始めのように、ぼとっ、ぼとっぼとっと黒い何かが落ちてきた。足元を見ると、大きなカブトムシやクワガタがひっくり返って、その6本の黒い足をごそごそと動かしもがいている。次の瞬間、夕立が本降りに変わるように、ザッーー!と物凄い音とともに、ありとあらゆる虫の大群が頭上から降り注いできた。僕らの周囲一体の地面が、黒光りした色に変化し、それら一つ一つがもぞもぞと不規則に動いている。阿鼻叫喚、まさに地獄絵図。日本人4人と外国人3人の悲鳴と断末魔が六甲山に響きわたった。 「…ひどい目にあった。」 「もう…虫捕りは満足よ…。」 「ごめんなさい!やりすぎちゃいました!」 「…………。」 千鶴はその後一時間、時折何か言葉にならない声をあげ、意思相通ができない状況になってしまった。 「気を取り直して、六甲山を満喫するわよ。」 千鶴が何とか正常なコミニケーションを取れるように戻った頃、芹菜は気合の入った声でそういった。切り替えの早いところが彼女の長所である。僕らは昼食がてら、六甲山カンツリーハウスに立ち寄った。ここでは、パターゴルフや魚釣りなどの様々なアクティビティ、自然に囲まれたバーベキュー場、珍しい散策型デザインのローズガーデンなど、幅広い楽しみ方ができる六甲山の豊かな自然に囲まれたレジャー施設である。7月初旬の今は、スカイブルーのアジサイが鮮やかに咲いていた。その傍で各々が持参した弁当を食べた。 お腹が膨れたあとは、芹菜がカンツリーハウスすぐ隣に位置する「六甲山フィールド・アスレチック」で遊びたいといいだした。六甲山の自然豊かなフィールドを活かした全40ポイントの本格的なアスレチックで、子どもだけじゃなく、大人もスリルや冒険心をくすぐられるアスレチックである。 「体力的に大丈夫か?」 この後には、まだ「六甲山牧場」という今回のメインとなる目的地が控えている。 僕がそう芹菜に尋ねると、「私はこれまでアスレチックというものにトライしたことがないの。私に絶対ケガをさせないようにと、両親が過保護すぎるほどに注意していたからね。」 生まれつき心臓の病気を患った娘を思う、彼女の両親の気持ちも理解できなくはない。しかし、確かに多少過保護すぎるというか、時折心配しすぎじゃないかという様子も見られた。 「オーケー、でもあんまり無理するなよ。しんどくなったらすぐに言うこと。」 そう芹菜に伝えると、「大樹はいいお父さんになりそうね。」とくすっと笑った。芹菜と家庭を持って、子どもができたらどんなに可愛い子が生まれるのだろう。女の子ならきっと芹菜に似るだろう。彼女のように凛とした雰囲気を持った可憐な女の子で、僕は間違いなく娘を溺愛する親ばかになるだろう。もし男の子なら、どこか僕のように、押しに弱いところとか、少し頼りないところをもってるかもな。でもきっと寛大な、懐の深いような男に育ってほしいな。 「置いて行かれるぞ。」  そんな妄想をしていると、遠くから千鶴の声が聞こえた。素敵な妄想に、白昼夢に夢中になっている間に、みなアスレチックに向けて出発していた。楽しいデイドリームから覚め、慌てて荷物をまとめる。千鶴も悪夢の『虫捕り』が終わり、お昼を食べて元気になったようだ。  七数珠は次々と身軽に、アスレチックをクリアしていった。彼女の次に千鶴が続き、その後にカメラを持った僕が、そして最後尾は予想通り、芹菜が息を切らしながらついてきた。 「…っなんで。…みんなっ。…すいすいとっ。…進めるのよ。」 いつもより半音低くなった声で、芹菜は生き絶え絶えに口にした。涼しげな目に涙を浮かべながら、ロープの網を這い上ろうとしているが、握力が限界に近いようだ。生まれたての鹿のように、ぷるぷると震えている。 「鍛え方が足りんのだよ。」 既にロープの網を登り切った僕が手を差し伸べると、芹菜も僕の両腕を、か弱い力で握った。彼女の身体をロープで引きずらないように安全を確認し、そのまま彼女を引き上げた。先の方では、七珠奈が「ひゃっほうっーー!」と叫びながら、ターザンロープを全速力で滑走していた。もう一台のビデオカメラで千鶴がそれを撮影している。何度か芹菜を引き上げながら進むと、木でできた小さなボートに乗って、対岸まで池を渡るアスレチックの前で七珠奈と千鶴が待ってくれていた。芹菜はもはやへとへとである。  珍しく僕の第六感が、このシチュエーションはあまりにも危険であるという警笛を鳴らした。木製のボートは一気に四人が渡るには小さすぎた。 「千鶴と僕は後でいくよ。写真撮ってやるから、七珠奈。カメラ貸してくれ。」 「さすが!気が利きますね。」 僕にカメラを渡した七珠奈が嬉しそうに乗り込む。ついで、意識が朦朧としている芹菜が七珠奈に手を引かれるままに乗り込んだ。…すまん、芹菜。でも、全力で外で遊ぶって、こういうことじゃないだろうか。 ボートの対岸までにはロープが複数渡されてあり、それを伝って自力で渡ることもできるし、対岸の相手から引っ張ってもらうこともできる。池の中間地点まで、二人を乗せたボートは何事もなく進んだ。 「なんかスピードが遅くてつまらないですね…。あっ!対岸にさっきのみなさんがいますよ。」 七珠奈が手を振った先には、いつぞやの外国人三人連れの姿があった。 「Pull the rope !!!!」 外国人三人は、「Yeah!」と声をあげ、全力を尽くしてロープを引っ張ってくれた。彼らに引っ張られたボートは、だるま落としで打たれた円筒の土台のように、芹菜と七珠奈を池の真ん中に取り残し、ボートだけが一気に対岸までたどり着いた。池の真ん中で取り残された芹菜と七珠奈は、一瞬空中に浮いているように見えたが、一秒後には大きな水しぶきをあげ、池の中へと落ちていった。…僕の第六感は見事的中した。 千鶴と僕は、思わず「おぉ~っ」と唸るような声をあげ、この間物理の授業で習った「慣性の法則」を見事に体現するその光景に感心していた。そして僕はその一部始終を、完璧なまでにカメラに収めていた。稗田先生に、ぜひ今度の物理の授業で使ってもらえるように打診してみよう。 「慣性の法則への理解が深まったな。」 「外力が働かなければ、物体は静止、もしくは等速直線運動を続けるってやつだな。僕も同じことを考えていたよ。」  ずぶ濡れの彼女らには申し訳ないが、大事なカメラを持った僕と千鶴は、芹菜と七珠奈がなんとか対岸まで這っていく姿を見届けた後、無事に対岸まで渡りきった。身に着けていた衣服はずぶ濡れだったが、幸いにも二人とも防水式のスマホであったため、特に大きな被害もケガも無さそうである。 「…ごめんね。芹菜ちゃん。」 「いいわよ。熱くて熱中症になりそうだったし。おかげで涼しくなって、目も覚めたわ。大樹のおかげでカメラも無事だしね。」 恐らく芹菜は、僕がこの一連の流れを予期していて、芹菜を先にいかせたことに気づいたようだ。僕のおかげと言いながら、彼女の僕に対する視線は少しひややかだった。 彼女たちの服が濡れて透けていることに、一々顔を赤らめるような、手垢のついた一連の流れを僕は好まない。堂々と見つめていると、七珠奈に「まじまじと見ないでください。」と逆に顔を赤らめられてしまった。 「僕がそれしきで恥ずかしがるチェリーボーイと甘く見てもらっては困るな。」 「そうね。大樹は恥を知らないチェリーボーイだものね。」 芹菜が僕の言葉を言い換えた。同じような意味にも聞こえるが、途端にニュアンスが大きく変わってしまった。 「恥をしらないチェリーボーイって、なかなかヤバいやつのように聞こえるんだけど…。」 「あら…、大樹はてっきりヤバいやつだと思っていたわ。」 全く持って、取り付く島もない。 「…まぁ、服なんてすぐに乾くよ。ずぶ濡れになるのも、The 夏って感じがして、趣があるじゃないか。」 「そうね。…でも、私はやっぱり、部員みんなでこのThe Summerを、夏の趣とやらを楽しみたいわ。そう思わない?大樹、千鶴?」 「大樹はともかくっ、なんで私もなんだっ!?」 芹菜の圧は、それまで僕に向かっていたが、急に矢面にたたされた千鶴は狼狽していた。 「あら、あなたもずぶ濡れになった私たちを見て、慣性の法則ここに極まれりって感心していたように思えたけど?」 「…そんなことはないぞ!?」 焦る僕らからカメラを奪い取ると、芹菜はフィンガースナップで七珠奈に合図を送った。 「合点承知です!Push Them !!!」 七珠奈の掛け声とともに、謎の外人さん三人衆は、容赦なく僕らを池に突き飛ばした。 濡れた服が身体に張り付き、六甲山を吹き抜ける風がより一層涼しく感じる。中途半端に濡れるのは不快だが、いっそのこと全身びしょ濡れになってしまうと、もう何でもいいやと前向きな気分になる。 アスレチックを完走した僕らは、今回の目的地である六甲山牧場に向かっていた。 六甲山牧場は、六甲山上にひろがる高原牧場で、「人と動物と自然とのふれあいの場」をテーマに、北欧風のマンサード型の牛舎や赤煉瓦のサイロ、そして乳牛や羊、ヤギたち家畜とふれあうことができる。南に位置する「六甲山Q・B・Bチーズ館」や「まきば夢工房」では、チーズ料理、食作り体験、羊毛クラフト体験なども楽しめ、アルプスの雰囲気で満ち満ちている。僕はここに子どもの時からよく遠足で行ったり、家族に連れてきてもらったりしたこともあるが、何せここのソフトクリームが絶品である。新鮮で濃くのある生乳に、カマンベールチーズを混ぜ合わせることで、他にはないその癖になるユニークな味わいをもたらしめる。神戸を訪れる機会があれば、ぜひ一度は食べてみてほしい。 「牧場内の全ての動物たちとふれあいたいわ!」 六甲山牧場に着くやいなや、放牧されている羊をバックに、芹菜がまた何か言い出した。いや、しかしまぁ何事にも目的や目標は重要である。ここ六甲山牧場は「人と動物と自然のふれあいの場」をテーマとしている。六甲山牧場のよさをPRするという目的に、全ての動物たちとふれあうという目標は、あながち的を射ているかもしれない。 六甲山牧場には、乳牛をはじめ、羊、やぎ、牧羊犬、馬、ミニブタ、うさぎ、アヒル、モルモットと様々な動物が飼育されており、また多くのイベントやアクティビティも楽しめる。甲子園二十三個分ほどもある牧場を全て網羅するのも大変なので、僕たちは二人ずつのグループに分かれて分担して撮影、取材することに決めた。 「グー、パーで、わかれましょっ。なってない!」 グループ分けの結果、僕と七珠奈、芹菜と千鶴の二グループに分かれることに決まった。 僕と七珠奈は北側のエリアを、芹菜と千鶴は南のエリアを廻った。 乳牛舎があるエリアでは、まだ生後二か月ほどの子牛たちに哺乳瓶でミルクをあげることができる。最初は僕が撮影していたが、途中から七珠奈にカメラを渡し、片手に哺乳瓶、もう片方の手にビデオカメラを持ちながら、子牛がミルクを飲む様子を間近で撮影する。 「わぁ、すごいよく飲みますね!もっとたくさん飲んでくださいね!」 七珠奈が哺乳瓶をもちあげる角度を高くし、より多く飲めるように傾けた。どんどん哺乳瓶の中の白い液体が減っていく。 「少しミルクを与えるスピードがはやくないか?子牛もなんか、必死の形相で飲んでるように見えるけど…。」 「大丈夫ですよ。とっても美味しそうに飲んでますよ。」 「それならいいんだが…。」 もうすぐ哺乳瓶の中身がなくなるかといった頃、勢いよく注がれるミルクにむせたのか、子牛が口と鼻からミルクを噴出した。子牛を映していたカメラの画面が白く包まれる。 「おいおい、大丈夫か…ビデオカメラは?」 「それより私の心配してくださいよっ!」 七珠奈は驚いてしりもちをついていた。恨めしそうに立ち上がり、こちらにじりじり詰め寄ってくる。 「…ちょっと、子牛の唾液とミルクと鼻水をかけられた人は、僕に近づかないでほしいのだが…。」 しばらくの間、乳牛舎の前で僕と七珠奈が追いかけっこをしていた。 「はっはっは!流石に女子の細足に負けるほど、僕の足腰は弱くないよ!」 振り向くと、息を切らした七珠奈が牧草地の窪みに足を取られ、派手に転ぶ瞬間が映った。 「おいおい、…大丈夫か。」 うつ伏せに倒れる七珠奈に手を差し伸べると、勢いよく腕を掴まれた。 「引っかかりましたね!大樹さん。ふかふかな芝生だったので私は無傷です。あなたのその甘さが命取りですよ!」 心配して損した。いや、ミルクをぶっかけられた最初から彼女を心配してあげたら、こんなことにもならなかったのか。僕の胸に顔をうずめるように、七珠奈は僕のTシャツでミルクや牛の唾液で汚れたところを拭いた。 「…ひどいめにあった。」 「そうですね♪これからはもっと、女の子には優しくすることですね!」 お互いべとべとで気持ちわるいはずなのに、先ほどから七珠奈のテンションが高いように見える。まぶしい太陽の下で、きらきらと子どもらしく笑う七珠奈の笑顔が輝いていた。 一方そのころ、芹菜と千鶴は「シープドッグショー」を観ていた。トレーナーの指示に従い、牧羊犬が羊を見事に誘導したり、追い込んだりする姿はお見事である。 一通りその様子を撮影し終えた二人は、牧羊犬に追われて必死に逃げる羊たちをぼんやりと眺めていた。 「そうえばさ…。」 「何かしら?」 「芹菜と大樹って付き合ってんの?」 「あら、千鶴は、私と大樹の仲が気になるのかしら?」 「いやいやっ!別に嫌なら答えなくてもいいし、興味本位で聞いただけだからさっ!」 別に深い意味はないと、千鶴は大きく首を振って否定した。 「そうね。昔からの幼馴染ではあるけれど、別に付き合う、付き合わないとか、そういった男女の深い仲というわけじゃないわ。」 「…そうなんだ。てっきり付き合ってるのかと思ってた。」 「でも、まぁ私にとって、とても大切な人であるのは確かよ。」 「そりゃそうだよな。ごめん!変なこと聞いて。」 「もし…、千鶴が大樹にアタックしたいなら…、私に許諾を得る必要なんてないわ。」 芹菜のその言葉に対して、千鶴は、今度はなだめる様な声でゆっくりと否定した。 「そっか。いや…、そのつもりはないよ。だって、芹菜にそんな不安そうな顔をされたら、私には二人の関係の邪魔をできないさ。」 「ちょっとっ!誰が不安そうな顔をしてるっていうの!?別に私は…大樹と付き合いたいだとか、そんなこと…これっぽっちも考えてないわよ!」 「気にしてないなら取り乱さなくてもいいじゃん(笑)」 「取り乱してなんかないわ!…次の乗馬体験に行くわよ!」 芹菜はつかつかと先に進もうとする。 「おーい。乗馬体験は反対方向だよ。」 「もう!千鶴のいじわるっ!」 「芹菜って意外と天然ボケというか、可愛らしいところあるね。」 「誰がボケよ!私に可愛いところなんてないわよ!」 もはや何をいっても否定されそうだ。これ以上はからかうのは止めて、まぁまぁとなだめて歩く千鶴であった。  大方の取材・撮影を終えたところで、芹菜たちから、“合流してソフトクリームを食べよう”というメールがきた。レストハウスの売店で合流し、牧場オリジナルのカマンベールソフトクリームと、牧場で飼育している乳牛からしぼった生乳100%の牛乳を注文した。  注文を待つ間、お互いの成果を報告した。 「馬に乗る前は、騎乗姿勢はどうだとか、軽速歩を制するものは乗馬を制すだとか、よほど乗馬に自信があるんだと思ったんだけどね…。」 千鶴がため息をつきながら、芹菜が乗馬しているところを撮った映像を僕らに見せた。そこには、ガイドのお姉さんに支えられ、おっかなびっくり、ぷるぷる震えながらへっぴり腰で乗馬する芹菜の姿があった。 「…僕は何度も言っているが、知っていることと、できることでは話が別だからな。」 「そんなこと分かってるわよ!だから色々チャレンジしてるんでしょ。」 芹菜が涙目で反論する。彼女の持つ知識量は圧倒的に多いのだが、それに反して彼女の経験値は圧倒的に低い。 「そっちはどうだったんだ?…というか、なんでさっきから七珠奈はガタガタ震えてんの?」 「こっちはこっちで…色々あったんだよ。」 僕は七珠奈が子牛にミルクを吹きかけられた映像と、彼女が大量の羊に追われる映像を見せた。 「…なんで七珠奈だけ、こんな大量の羊に追われてるのよ。」 「それはだな…。」 七珠奈は牧草地でベルを拾った。それはどうやら飼育員の人が羊に餌を与える時に呼ぶためのベルだったらしいのだが、何も知らない彼女は思い切りベルを鳴らした。 「まぁそういうことだ。」 「餌の時間の合図であるベルを彼女が鳴らしてしまい、彼女を飼育員だと勘違いした羊が押し寄せたのね。」 「ベルを離せばいいのに、ベルを持ったまま逃げるからさ。余計にカランカランとベルの音を鳴らして、大量の羊が集結したんだよ。羊の大群を引き連れて先頭を突っ走る姿は、ハイジも真っ青の光景だった。」 「だからさっきからキョロキョロと、羊がいないか確認してるのね。」 七珠奈にとって、羊とベルは大きなトラウマになってしまったようだ。 お互いの成果を話し終えるころ、店員さんがテーブルまで人数分のソフトクリームと牛乳を持ってきてくれた。歩き疲れた体に、ソフトクリームの甘さが染み渡る。夏の疲れているときに食べるソフトクリームは格別だ。口の中全体が甘くなったところで、よく冷えた牛乳を流し込む。成分調整などを一切していない低温殺菌のみされた牛乳は、普段飲む牛乳と一味も二味も違う。 「なにこれ!めちゃめちゃ美味しいですねっ!」 先ほどまで沈んでいた七珠奈が、ソフトクリームを口にして元気を取り戻した。 「なんだ、今まで食べたことなかったのか?」 「中学までは父方の九州の博多に住んでましたからね。でも、母が神戸出身なので、神戸っ子としての熱い血は流れていますよ。」 「私も生まれて小学校に入るまではフランスに住んでいたわ。神戸市民は別に、神戸っ子じゃないからって排斥したりしないわよ。多くの海外の人たちを受け入れてきた町なのだから、いたって寛容な市民性だと思うわ。」 「えっ、芹菜さんフランスに住んでたんですか?」 「言ってなかったかしら?でもまぁ、ほとんど神戸で育ったわ。大樹も同じような感じね。」 「僕も実は、生まれたのは母の実家の豊岡なんだけど、物心ついた幼稚園の頃から神戸の北区で育ってきたな。千鶴は生まれてからずっと神戸市内の元町だよな。中央のほうだとお洒落な人が多いんじゃないか。」 「そうだな。ずっと元町の繁華街の近くに住んでいるが、色んな人がいるよ。いかにも関西人って感じのおばちゃんもいるし、神戸マダムって感じの人もいるからね。」 出身地トークに花を咲かした後は、みんなでバター作り体験をした。出来立てほやほやのフレッシュバターをクラッカーに付けて食べる。やはり市販の冷蔵庫で固まっているバターと、出来立てのフレッシュバターとでは、味も風味も別格であった。ちなみにここ六甲山牧場内の「まきば夢工房」では、バターだけでなく、アイスクリーム、フローズンヨーグルト、チーズタルト、チーズの手作り体験も可能である。 バター作りを終えたあとは、同じく園内のQ・B・Bチーズ館に向かった。 「酪農の国、フランス生まれの私は、チーズには少しうるさいのだけれども、ここのフェルミエはノルマンディのカマンベールにも引けを取らないほどに美味しいわ。」 「…すまん。お前が何を言ってるのかよくわからないんだが。」 「フェルミエはフランス語で、『手作りの』とか、『農家で作った』という意味よ。六甲山牧場では、牧場内の乳牛から搾った乳を、ここのチーズ工場に運んで手作りしているのよ。ちなみにカマンベールといえば、フランス北部のノルマンディが有名だけれども、ここのチーズもノルマンディと同じように、一般的な熱処理されたロングライフタイプのチーズと違って、熟成後も乳酸菌や白カビが生きているから、フレッシュな味わいを楽しんだり、熟成させたりして好みの味を楽しめるわ。」 「さすがフランス出身だな。」」 「年に一度はフランス祖父の家を訪れるからね。色々なチーズを食べてきたわ。」 気が付くと、七珠奈も千鶴も、芹菜の話を興味深々で聞いていた。ほんと女の子はチーズ好きな子多いよな。僕も嫌いではないけど、臭いがきついチーズは苦手だ。 「いいなー。私も色々なチーズ食べてみたいです。」 「また次フランスに行く際は、お土産に買って帰るわね。」 外に出ると、ひぐらしの鳴き声が聞こえ、日差しが西の方角から芹菜の顔を照らしていた。夕焼けをバックに、芹菜はまた何か思いついたようだ。 「せっかくなら、神戸ビーフが食べたいわ!」 「さっきからいっぱい食べてきたから、もうお腹は満足してるだろ。」 「神戸ビーフといえば、世界的にも超有名なお肉ブランドよ。神戸マチエールとしては、そこを抑えないわけにはいかないわ。」 「神戸ビーフなら、中央区の方に有名店がいっぱいあるだろ。それにやっぱりお腹を空かせていくべきだ。」 「確かに、大樹の言うことも一理あるわ。…でも、見てよこの、神戸ビーフ100%ハンバーグ。神戸ビーフといえばステーキで食べるのが主流だけど、ハンバーグって店によってかなり味が変わるでしょ?食べてみたいと思わない?」 確かに、ここのハンバーグはすごくうまそうだ。ハンバーグは、店によって味付けはかなり違う。六甲山上のこの店のハンバーグを食べる機会はなかなかないかもしれない。というか、そもそも神戸市民だからって、僕みたいな庶民家庭では神戸ビーフなんて滅多に食べれないのだけれども。 「…わかった。だが、みんな先ほどから色々食べてきて、そこまで空腹じゃないだろう?だからみんなでシェアして食べよう。」 実は財布の中身が心細かったからとはいえなかった。まぁみんなお腹の空腹度的にそれがベストだと、僕の意見に同意してくれた。 さすが日本三大和牛の神戸牛。口に入れた瞬間、重厚な牛肉のうまみが舌の上に広がり、肉を噛みしめるとサラサラと清涼な肉汁が溢れだす。この多幸感は筆舌に尽くしがたい。全員自然と笑みがこぼれる。二人で一皿ずつ注文したが、ぺろりと平らげてしまった。  圧倒的な満足感をもって店を出ると、陽が地平線に潜り込み、ほとんど夜の帳がおりかけていた。空には夏の星座がちらほらと浮かび上がってきている。 浮かびかけている星座をバックに、本日最後のわがままを、否、提案を、芹菜は声高々宣言した。 「掬星台まで、1000万ドルと称される神戸の夜景を見に行きましょう。」 神戸の夜景が1000万ドルの夜景と呼ばれるのには、今から約半世紀ほど前に一応の由来があるらしい。その当時、英語圏ですごく立派な価値あるものに対し、「100万ドルの〇〇」と称するのが流行り、当時の六甲越有馬鉄道がキャッチフレーズとしてつけたのが基となる。実際、当時の神戸の町に灯る電灯の数から一月のあたりの電気代を算出すると、100万ドルに近い数字になったらしいが、それから時代を経るにつれて、神戸の町の光が増えたことと、ドルの価値が急上昇した際に、100万ドルから1000万ドルに昇格したというのが事の次第であるとのことだ。 「掬星台からの神戸の夜景は、日本三大夜景の一つとして有名ね。」 「神戸は神戸牛だけじゃなく、夜景まで日本三大に挙げられてるんですね!」 七珠奈の感心した声に、芹菜が少し鼻を高くして付け加えの説明をする。 「神戸には他にも、三名泉の有馬温泉、三大中華街の南京町、三大神滝の布引の滝、三大美港の神戸港など、有名なところでもいっぱい日本三大があるわよ。」 「他にも三大酒処の灘、三大銘石の御影石なんかも有名だよね。」 「さすが生まれも育ちも神戸っ子な千鶴もよく知ってるな。僕はあまり日本三大とか意識したことなかったよ。」 「神戸市民としての自覚が足りないわね。部長として、もう少ししっかりしてもらわないと。」 「そういった博学的な知識については任せるよ。僕はどこの店の何が美味しいとか、もっと実用的な知識の方が多いからさ。」 掬星台に到着すると、既に家族連れやカップルがちらほら見えた。 「うわーすごい!道がきらきら光ってますよ。」 「天の川の上を歩いているみたいで感動するな。」 足元には、天の川よりも星の数が多いのではないかと思うほどの、無数の青い光が幻想的に輝いている。 「僕が子どものときはこんなのなかったぞ。」 「2005年に作られた摩耶★きらきら小径ね。道に埋め込まれた蓄光石が昼間に日光を蓄えて、夜の間は青く光る。この幻想的な道が続く先が展望台よ。」 掬星台は定番夜景デートスポットである。手を伸ばすと星を掬えそうな場所として、その名が付けられた。小径を抜けると、展望台から神戸1000万ドルの夜景がパノラマ状に広がった。 「うわー!綺麗っ!!」 七珠奈が驚嘆の声をあげた。今までも何度か見に来たことがある僕ですら、思わず神戸の夜景の美しさに、感嘆を新たにした。いいものは何度見てもいいというが、確かにその通りかもしれない。 宝箱をひっくり返したようなその絶景。大きなビル街の、ライトアップされるような眩しい白い光、高速道路の上を無数に動く黄色い線のような鋭い光、のどかな住宅街の窓からぼうっと漏れる、あたたかいオレンジ色の光、それらの光に混じる中心街のネオンライトの青や緑、赤色の光、すべてが一体となり、神戸の海の黒いコントラストに一層その輝きを強調される。 「これだけたくさんの人が生活してるんだな。」 「なんかすごく幼稚なコメントね。大樹はもう少しロマンチックなことは言えないのかしら。」 「ロマンチックね…。この夜景よりも君の方が綺麗だよ。っとか?」 「とってもくさい台詞ね。しかも古臭いし、二重の意味でくさいわ。」 「お前たちは夜景デートで一体、どんなことを言われたいんだよ。」 芹菜の言葉を借りるなら、人の意見に異議するからには、ちゃんと自分の意見も述べるべきだ。すると、七珠奈が挙手をして意見を述べた。 「私だったら、この夜景をバックに…『これからもずっと僕の隣にいてください。』とかってプロポーズされたら、キュンってなってOKしちゃいますね。」 「私もシンプルで、素直に気持ちを伝えてくれるのが一番と思う。」 千鶴が首をたてに振って、七珠奈の意見に同意した。 「あら、私だったら、少し手の込んだというか、頭をひねった告白をしてほしいわね。」 芹菜は七珠奈たちの意見に異を唱えた。 「例えば、夏目漱石が洋書の『I LOVE YOU』をそう翻訳したことで有名な『月が綺麗ですね』だとか、もし私がそんなこと言われたら、『月は手が届かないから綺麗なんでしょ。』と答えるわ。」 「あれ、それって遠回しに相手のこと振ってない!?」 「だって、『いきなり月が綺麗ですね。』なんて言われたら怖いと思わない?もとより私は偉大な文豪の言葉をそのまま借りただけの告白なんて認めないわ。」 「っじゃあどんなのなら言いんだよ。」 僕が不満気にそう言うと、芹菜は微笑んで僕の目をじっと見つめた。 「それはあなたには…大樹だけには…秘密。」 「…ん?教えてくれてもいいじゃないか。」 芹菜は僕から視線をそらし、こちらに背を向け、神戸の夜景の方を眺めている。すると、千鶴に肩を小突かれ、藪の方に連れていかれた。 「バカ野郎!この唐変木!」 「えっ?一体何のことだよ。」 「好きな相手に対して、告白する時にはこんな言葉を言ってほしいなんていえるか?芹菜は大樹だけには口が裂けても言えないんだ。」 千鶴は叱りつけるような口調で続けた。 「だって、芹菜はお前からの告白を期待してるんだから。」 千鶴の言葉を、僕の脳が冷静になって理解し始めた時、僕の顔はカーッと染め上がっていた。 「いや、でも…。それじゃあ芹菜になんて告白すればいいか、彼女の待つ正解の告白の言葉がわからないじゃないか。」 「ほんと…馬鹿だね。」 千鶴は呆れた目で僕を見下し、ため息をついた。 「芹菜の言ってたことをちゃんと聞いてたか?…ありきたりの誰でもいいような言葉じゃなくて、誰かの言葉のまねでもない。つまり…」 千鶴は真剣な目で僕を見て、こう言った。 「芹菜は、お前の、大樹自身の言葉で思いを伝えてくれたら、それで十分なんだよ。」 展望台に戻ると、芹菜はまだ神戸の夜景の方を眺めていた。「七珠奈と一緒にもう一つの展望台の方を見てくる。」と、千鶴は僕らに告げ、そそくさと七珠奈を連れてその場を立ち去った。気を利かせて芹菜と二人きりにしてくれたようだ。 「芹菜。」 僕が問いかけると、芹菜は僕の方を振り向かずに「何かしら。」と返事した。 「さっきの言われたい告白とやらの話の続きだが、僕にはお前がしてほしい告白の言葉なんてわからない。」 「…そうよね。」 「でも、僕なりにお前が気に入りそうな告白の言葉を考えてみたんだ。聞いてくれるか?」 「あら、そうなの。いいわ、聞いてあげましょう。」 芹菜は神戸の夜景から目をそらし、ゆっくりとこちらを振り返った。 「芹菜…お前は人生って何のためにあると思う?」 「そうね。何か大切なことを成し遂げて、生きた証を残すことかしら。」 「確かに、何か偉業を達成したり、自分の生きた証を残すために、限られた人生を費やすという生き方は素晴らしいよ。」 芹菜は真剣な顔で僕の話しに耳を傾けていた。僕はつたない言葉でその続きを語る。 「でも、そのことに無心になるあまり、単純に人生を楽しむということを忘れたら、その生き方は少し寂しいんじゃないかと僕は思う。ただ一緒にいて楽しいと思える、そんな人と人生を過ごせるのはきっと素敵なことだ。だから…」 僕は息継ぎをして、最後の告白をした。 「僕はこの限られた人生の時間を、芹菜と過ごすことに、芹菜と一緒に楽しむことに、今までも、これからも、全てを捧げたい。僕の傍に君がいてほしいと思うんだ。」 掬星台の展望台の上に、静かな緊張が張りつめた。芹菜は今、一体どんな表情をしてるのだろう。「…なーんちゃって。」とか言って今更ごまかしが利く状況でもなさそうだ。僕は芹菜の表情を覗うように、何か言い訳をするように付け足した。 「一応…この言葉は今しがた考えたわけじゃなくて。ずっと前の出会った頃から…僕はお前に」 そこで僕の言葉は途切れた。否、途切らざるを得なかった。神戸の夜景の光に照らされた芹菜が、涙を浮かべた表情で僕の胸に飛び込んできたからだ。 「…ありがとう。私もよ。」 僕の胸に顔をうずめながら、芹菜は僕のつたない告白への返事をかえしてくれた。 「私だって、できるのならば…。これからも大樹とずっと一緒に過ごしたい。人生全てをあなたに費やしたっていいと思っているのよ。」 二人並んで、掬星台の展望台から神戸の夜景と星空を眺めた。掬星台から見ると、星や町の光に手が届きそうな錯覚を覚えるが、実際には全く手が届かない。僕の傍にはいつも芹菜がいてくれたけど、僕の気持ちは彼女に届くのだろうか。先ほどまでそんな思いが胸を占めていたが、その不安は彼女の言葉で、一つの霞みも残さずに消え去った。今では先ほどよりも、もっと神戸の夜景がよく見える。より一層、輝いて美しく見える。多分神戸の夜景は、先ほどから何も変わらずに美しく輝いているままなのだけれども。 長く感じた土曜日の六甲山巡りを終え、家に帰った瞬間その疲れで泥のように眠った。日曜日は午前十時ごろまで熟睡し、母が朝食の準備をする音で目が覚めた。けたたましいアラームの音でなく、静かな生活音で自然と眠りから覚めるというだけでもなかなかの多幸感だが、今日はまた一層世界が美しく、幸せそのものが身体の中に存在しているように感じる。 平日はなかなか家族全員そろうことは難しいが、日曜はいつも、母が手の込んだ朝食を用意してくれ、家族みんなでゆっくり朝食をとる習慣が自然とできていた。妹はトミーズのあん食(あんこがたくさん練り込んである食パン)を焼いたり、コーヒーを淹れたりして手伝っている。 「飴色に焼けたトーストとコーヒーの甘美な香り、家族が朝食を準備する音だけが聞こえる静かな朝。なんて世界は素晴らしいんだろう。」 「お兄ちゃんどうしたの?すごく気持ちが悪いよ。」 妹と母は怪訝な顔で僕をみた。父も静かに新聞に目を通していたが、上目遣いでこちらを覗いていた。 「お兄ちゃんも手伝ってよ。」 「もちろん。なんだか世界が輝いて見える。」 あつあつとろとろのスクランブルエッグを食卓に運ぶ母が、「あの子どうしちゃったのかしら。」と父に相談する声が聞こえる。 「六甲山で変な物でも食ったんじゃないか?まぁ、あの年頃は…そんなもんだろ。」 「あら、あなたもそんな時あったの?」 「……。」 父は新聞に再び目を落とした。 今日は芹菜と初のデートである。今までも二人でどこかに遊びに行くということはあったが、しかし、恋人として二人きりというのは初めてである。 今日の朝起きると、芹菜から、否、僕の彼女からメールが入っていたのだ。 “今日の午後から会えるかしら。大丈夫なら、午後二時に阪急の西口前で” 遅めの朝食を済ませ、いつもより念入りに髪を整え、歯を磨く。少し余裕をもった時間に家を出て、神戸電鉄のプラットフォームでおばあちゃんの隣に腰かけて電車を待った。 日曜の三宮は人が多い。そうはいっても、東京や大阪の梅田とかに比べると、全然大した人込みではないのだろうけれど。 阪急西口のマクドナルドの前には、千鶴と七珠奈がいた。 「なんでお前らここにいんの!?」 「なんでって、芹菜さんから聞いてないんですか?」 「今日は、昨日行った六甲山とその周辺についての歴史や関連する情報を調べるために、これから三宮の中央図書館に向かうんだろ。」 僕は少しだけ肩を落とした。 「もしかして、芹菜と二人きりのデートだと思ってたの?」 さすが、千鶴は勘が鋭い。芹菜への告白が成功したということについて、直接は言っていないのだが、昨日の帰り際の僕の浮かれた様子に、既に感づいているようだった。それでも一応、同じ部の二人には説明しておこう。 「実は昨日、僕と芹菜は付き合うことになりました。」 「えっー!!」と驚く七珠奈と、「知ってる。」という千鶴の二人の対局の反応が見られた。しかし、七珠奈の反応は、僕の予想していたものとはまた別の意味合いであった。 「昨日までは付き合ってなかったんですか!?」 「えっ、そりゃそうだよ。」 「てっきり、とうの昔からお二人は付き合ってるんだと思ってました。」 「いやいや、どう見たらそう思うんだよ。」 僕の反応に対し、七珠奈と千鶴はやれやれという反応だった。 「待たせたわね。」 芹菜が午後二時定刻ジャストに到着した。 「千鶴と七珠奈はともかく、大樹が時間に遅れずに来ているなんて。今日は雪でも降るのかしら。」 「夏真っ盛りなのに雪なんか降ってたまるか。僕の記憶が正しければ、今までだって、僕は待ち合わせ時間に遅れたことはないはずだ。」 「そうだったわね。さっそく図書館で調べものをするわよ。」 なるべくいつも通りに接することを意識しているのだろうが、芹菜の僕への扱いにいつもの鋭さが足りない気がした。彼女なりに僕を、否、彼氏のことを意識をしているのだろうか。そう思うとちょっと嬉しい。  三宮の中央図書館は、市民の憩いの場である。一階が図書館。二階以降はヨガ教室にダンス教室、様々な教室が開かれたり、受験生の勉強スペースがあったり、喫茶店もあるなど、コミュニティセンターとしての役割を果たしている。  芹菜と七珠奈は図書館内のパソコンや本などを活用し、六甲山周辺の歴史や施設の情報についてまとめている。千鶴は自分のパソコンで早速、動画の編集をはじめてくれた。さすがは将来、映像の道の仕事に進みたいというだけがあって、専門知識をしっかり持っており、仕事も早い。どのソフトが使いやすいとか、どんな風にカットや文字を入れたらいいかなど、僕も千鶴に教わりながら、写真や動画の編集の仕事を手伝った。  夕方まで作業し、続きは明日学校でということでお開きになった。次の週、部室がまだもらえない僕らは、学校に自分のパソコンを持って行き、教室で続きの作業を行っていた。大方ビデオの編集も終わり、ブログの記事も作成が終わりつつあったのだが、そこからネット上に動画や記事をアップロードするまでには、また一悶着あった。 いよいよ全て完成し、神戸マチエールの活動報告をしようかという矢先、教頭が教室を尋ねてきて、僕らの活動に待ったをかけた。 よくよく考えれば当然である。学校の部活動として、部の活動の動画をネット上にあげるとなると、もしネット上にアップロードされた僕らの動画に、何かしらの問題行動でも映っていようものなら、大いに学校の評判を落としかねない。ましてやそれが、学校公認であったとなれば、その責任を追及されるのは学校側である。 教頭の要求はこうだ。「我々で君たちの活動報告とやらがネットにあげても問題ないものかチェックする。なので動画データとブログの記事をこちらに渡しなさい。」 要するに検閲である。僕らは大人しく彼らに完成したデータを渡した。 別に何もやましいようなところはない。先生たちにチェックされた後、アップロードの許可が出ると僕らは考えていたが、甘かった。 後日、僕らの活動をネットにあげる行為は、一切禁止するという校長命令が出された。 「何が生徒の自主性を重んじる学校よ!日本はいつから社会主義になったのかしら。」 稗田先生から、先ほどの校長命令を聞かされた僕らは落胆し、芹菜は今にも校長室に乗り込まん勢いで憤慨していた。稗田先生は、「職員会で何度も掛け合ったんだが、駄目だった。…すまん。」と言い残し教室を後にした。 「でも…仕方ないのかもしれない。」千鶴がぼそりと呟いた。 「今の時代、何も悪くなくたって、ほんのちょっとしたことで、相手のあげ足をとったり、誹謗中傷したりして、ネットで炎上させようとする暇な人達がいるからな。」 「そんな愚かな人たちに食い下がってもいいの!?」 千鶴の諦めた様子に、芹菜は異を唱える。 「この活動は、もとは本当に私のただの思い付きで始まったわ。でも、私たちは実際に現地を訪れ、その土地の良さを経験し、動画を撮ったり、話を聞いたり、真剣に取材をしたわ。そして、この…私たちが住む神戸のよさを、多くの人に知ってもらいたいと心から思っている。それをつまらない人たちの誹謗中傷を恐れ、大人の都合で制限されるなんて、そんなことが正しいとは思えないわ!」 芹菜の意見は正論である。正しい論点をついている。しかし、学校側の意見も同様に正論だ。コンビニアルバイトがアイスの冷蔵庫の中に入ったり、おでんをつんつんする客がいたり、動画やSNSといったものに敏感な世の中である。僕らがそんな馬鹿なことをするはずがないとしても、ネットにあがった顔写真を編集し、アダルトなサイトにあげられたり、住所を特定されたり、そんな恐ろしい事態にもつながりかねない。ネット上に動画をあげることで、万が一にでも生徒に危害が及ぶようなことはあってはいけない。それらの可能性がゼロでない限り、学校側の判断は適切にして賢明だ。 二つの相反する正論が存在するとき、解決策は二つだろう。お互いの意見の妥協点を見つけ出すか、一方の意見に従うかのどちらかである。 高校生の僕らは、自分たちが思っているほど、大人じゃない。義務教育じゃなくなるからといっても、少年法に守られ、選挙権も与えられていない僕らは、自分たちの想像以上に子どもだ。その当時の僕らは、自分たちの行為に、自分たちで責任を取るだけの力をまだ持ってはいなかった。僕らの制作した動画とブログはお蔵入りすることになった。 それから二年半が経過した。 当時高校一年生だった僕らは、大学一回生になった。 校長命令が出たあの一件以来、僕たちの部活はわずか一か月と持たず、廃部になった。しかし、今までの高校生活の二年半という長い月日を、僕らは決して無駄にはしていない。 校長の令には従ったが、それは決して神戸マチエールの活動を諦めることではなかった。神戸マチエールは、高校の部活ではなく、僕たち4人の共通の趣味として活動することになった。 この二年半の間、有馬温泉で太閤の湯に浸かり、北野異人館に赴き異国情緒ある歴史に触れ、実物大鉄人28号の前で写真を撮り、南京町で食べ歩き、夏には須磨海浜公園で泳ぎ、冬にはルミナリエの灯に感動し、震災から復興した神戸の町と、震災を乗り越えた人々、助けてくれた人々への感謝に思いをはせ、正月には生田神社に初詣をした。 まだまだ語り尽くせないのだが、神戸の魅力や歴史に僕らは触れ、それを動画に取って編集し、ブログにかけるように記事を作った。 その活動は大学生になった今でも続いている。 芹菜と僕は、京都、大阪に次ぐ名門大学である神戸大学に進み、芹菜は文学部、僕は理工学部に進んだ。七珠奈は私立の教育学部に進み、千鶴は映像関係の専門学校に通っている。進路はそれぞれだが、全員相も変らずに神戸に住んでいるため、休みの日には、みんなでお洒落な純喫茶巡りをしたり、雰囲気のいい隠れ家レストランのような穴場スポットを探したり、ヴィッセル神戸の試合を観に行ったり、オリックスバファローズの試合を観戦したりしている。 大学生になると、その行動範囲も、できることも増える。神戸には大人に近づくから楽しめる場所もたくさんあるのだ。今はまだお酒は飲めないが、二十歳になったら灘の酒蔵見学なんかもいいだろう。高校時代に撮りためた動画とブログは、これから少しずつアップロードしていく予定だ。 芹菜とはこの二年半、色々すったもんだあったが、僕の気持ちは何も変わっていない。芹菜より少し早く講義が終わった僕は、食堂で彼女の講義が終わるのを待っていた。 「待たせたわね。」 芹菜の声に顔を上げる。 「お疲れさま。」 「お疲れさま。何もつかれるようなことはしてないけどね。」 人生のモラトリアム真っ最中、一番時間を持て余すであろう大学生が、何に付けても「お疲れさま。」とあいさつをする理由はなんなのだろうか。 「大樹は午後からはフリーなのかしら?」 「今日は何がしたんだい?」 芹菜は大学生になって、一段と綺麗になったように思う。化粧をするようになったから、髪型を大人っぽくしたから、そんな簡単な理由では言い表せないのだが、高校の時から見え隠れしていた気品のようなものが、一段と開花したように思う。 芹菜は僕に手を差し伸べてこう言った。 「決まってるじゃない。神戸という町でいっぱい遊びたいわ。華のキャンパスライフとやらを満喫しにいくのよ。もちろん大樹も付き合ってくれるわよね。」 僕は丁度半分くらいまで読み進めた文庫に栞を挟み、高校の時より少しましになったが、相変らず華奢な芹菜の手をとった。窓の外を見ると、青空の一番高いところから太陽が道行く学生たちを照らしている。 「今日はお出かけ日和だな。」 「なんか、おじさんくさい表現ね。」 芹菜と共に見る神戸の町は、相も変わらず美しく輝き、胸を弾ませるような発見を求めて、僕らは今日もこの町を歩き続ける。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!