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魔王とみなし子
その国は太古の昔から魔王に支配されていた。空は灰色の雲で常に覆われ、海はどんよりと澱んで荒れていた。土は荒廃し、ろくな草が生えなかった。人々は美味しくもないかわりに、どんな場所でも枯れない強い芋などを栽培してしのいでいた。
それでも国には、絵やら音楽やら美しいものは存在していた。荒れた大地からは貴重なダイヤモンドが産出され、あでやかな装飾品が作られた。
魔王は美しいものを好んだので、人々は芸事に励んだ。身目麗しい姿、着物、踊り、優雅な仕草や声音。人々は競うようにして、そういったものを身に着けた。
また、芸術品や、様々な貴重な鉱物なども、人々は好んで手に入れた。魔王の国は他国に対し、とても強かったので、人々は裕福だった。ものを持つことこそが美徳だと国民は思っていた。
空は本来青く澄んでいるものだが、この国では厚ぼったい黒い雲で常に覆い隠され、僅かな日の光しかささない。
海は本当は日差しに輝き命の源を思わせる優しさに満ちているはずだが、この国では荒く冷たく暗い死の場所でしかないのだった。
青々とした木々が風にそよぐ歌も、小鳥の羽根の色も、人々は知らなかった。
美しい品物に囲まれていれば満足だった。世界はこんなに綺麗で素晴らしい、と、手に入れた宝玉や芸術品や、美しい踊り子を見て人々は喜んだ。
まるで箱庭の中で栄えているような国だった。
**
何百年も続いた今の魔王の世も、まもなく代替わりを迎えようとしていた。
死の床についた魔王は、一人息子の王子を呼んで話をした。
「お前の顔など見たくもないのだが、次の魔王候補はお前しかいないので、仕方なく遺言話をしてやるのだ」
と、魔王は言った。王子は無言で、豪華な寝床に横たわる父親の顔を見つめた。
魔王は誰のことも愛していなかったし、愛されてもいなかった。それはつまり、魔王である限り、誰かを愛したり、誰かから愛されたりしてはならないということであった。
血のつながった息子であっても、魔王はこれっぽっちも愛そうとしなかった。息子から慕われるのも嫌った。
実は、死の床についた今になって、やっと王子は父親の顔を間近で見ることが許されたのだった。幼い時から王子は父親の側に寄ることがなかった。
柔らかく居心地の良い闇の部屋の中で、寝台に埋め込まれた真紅の宝玉が静かに煌めいた。獣の目のように、赤い宝石が王子を見下ろしていた。
「この国の一人残らずから、好かれてはならない。愛されるなどということは、断じてあってはならない」
と、魔王は言った。もうあと僅かな命の中で、言葉は痰を絡み、ひどく聞き取りにくかった。王子は側により、魔王の側に耳をつけようとした。あっちけ行け、と、魔王は拒否をした。
「誰か一人からでも愛された場合、たちまちお前は魔王の魔力を失う。国は魔王の封印を解かれるだろう」
そんなことがあってはならぬ。断じてならぬ。よいか、一人残らずから憎まれているように。同時に、誰一人として愛してはならぬ。
死に際の父から側に寄ることすら拒絶された王子は、ただ一度だけ、頷いた。
魔王はそれを見ると、「わかったな」とだけ言い、ぐうと小さい音を立てて息絶えた。
ちっとも悲しんでいない冷たい目で、王子は魔王の亡きがらを見下ろした。そして、枕元に置いてある、魔王が生前ずいぶん自慢していた見事な王冠を取り上げると、無造作に自分の頭に乗せたのだった。
「今日から俺が魔王だ。言われるまでもない、何者からも愛されることなく、魔王の国を永続させるのだ」
葬儀はごく簡単に行われ、その代わりに戴冠式は国をあげて、贅を尽くして行われた。
十日間にわたる祝いの式典のために、国の人々は生活を圧迫され、酷く苦しんだ。
「父親の裳にも服さぬとは」
不用意な言葉を吐いた者は目ざとく見つけられ、新魔王の手先に捕らえられた。例え幼い子を養わねばならない大黒柱であったとしても容赦せずに、そのまま暗く冷たい死の海に放り込んだのだった。
国の一人残らずから好かれてはならない、という父の遺言を、新魔王は早くも達成したかのように見えた。
たやすいことではないか、と、新魔王はきらびやかな宝石の宮殿から、冷たい赤い目で、荒廃した国を見下ろした。
垂れこめる雲はますます厚みを増し、国は昼間から薄暗かった。どどおんどどおんと打ち寄せる波は一際荒くなり、冷たい風が常に国に吹き荒れていた。
人が嘆き、苦しむほどに魔王の力は強力になった。
涙や怨恨こそ魔王の力だった。
憎め、もっと俺を憎むがいい、と、新魔王は国を眺めながら腕を組んだ。血の色の酒を飲みながら、一日ごとに荒んで行く国を見て満足していた。
国は金で潤っていたので、例え荒廃した大地しかなくても、人々は生きて行けた。貧しい芋しか作物がなくても、食べるものは外国からいくらでも手に入った。
豊かな身なりで着飾っていても、人々はどうしても満たされなかった。ぎすぎすと、互いにいがみあいながら人々は生活していた。
こうして新魔王の国は、ますます栄えていたのである。
**
魔王の宮殿には無数の鏡があった。
居心地の良い暗黒の中で、豪華な宝玉が煌めく中、様々な鏡がぼんやりと壁にかけられていた。
鏡のひとつひとつはよどみ、くすんでいて、よく目を凝らさないと中が見えないほどだった。
その鏡こそ、魔王の国の人々の心である。
鏡が汚れているほど、魔王にとっては都合が良いのだった。
ダイヤモンドの飾りがついたカンテラを伴い、新魔王は毎日、鏡を見て回った。間違いなくどの鏡も澱んでいるか。ひとつでも、美しく輝いているものはいないか。
それは、魔王が代々受け継いできた、大事な仕事のひとつだった。
新魔王もまた、毎日、鏡の点検を欠かさなかった。鏡は相当な数があったので、一日かけて宮殿を回り、入念に確認をしなくてはならないのだった。
あまりにもたくさんあるから、小さな鏡など見落としてしまうことがある。
その、ごくささやかな丸い鏡が、いつからそんなに美しく輝いていたのか、誰も分からなかった。毎日魔王は見回りを欠かさなかったのに、どうして見落としていたのか、それこそ謎であった。
「なんということだろう」
新魔王は、透明に輝く小さな鏡を見て唸った。
その鏡の周囲だけ、ぱっと明るかった。
ただし、あまりにも小さな鏡なので、その他たくさんの鏡の暗さには叶わないようだった。
小さな鏡はささやかに、ひっそりと、だが、確実に光っていた。しかも、その輝きは日に日に増していくようだった。
これは誰の心の鏡だろうか。断じて許してはおけぬ。早い段階で潰しておかねばならぬ。
新魔王は決意すると、不可能なことなどない強力な魔力を使い、一瞬で体を移動させた。次の瞬間、魔王は、死の海の側の、小さな小屋の前に立っていた。
**
「なんと醜い場所だろう」
新魔王は、自分の国の中にこんなに貧相な家があったことに驚いた。
物で満たされているほど良いとされる魔王の国で、その小屋は異色だった。隙間風が入り放題の、板で繋ぎ合わされた家は、今にも潰れそうに貧しかった。
こんな貧相な場所に住む者が、鏡を輝かせているのかと、新魔王は少し驚いた。
本当にこんな場所に人が住んでいるのかと思ったが、扉を叩くと、中から返事がかえってきた。軽い足音が近づき、きいと音を立てて扉が開いた。
魔王は、出て来た少女を見て肝をつぶした。それは、目をそむけたくなるほど醜い顔だった。
「あらまあ、いらっしゃい」
と、少女は潰れたような顔を笑み崩れさせ、荒れて汚れた手で新魔王を手招きした。
「何もないけれど、うちの中で休んで行って下さいな。まあなんて綺麗な服でしょう。なんて立派な姿でしょう」
家の中には少女の他には誰もいないようだった。
家族はいるのかと聞いたら、少女はにっこりと出っ歯を剥きだした。見れば見るほど、あきれるほど汚らしい少女だった。
「いいえ、わたしはみなし子です。両親は、この間、新魔王様が即位された時、国をあげてのお祭りがあって、その騒ぎの中で、馬車に潰されて死にました」
少女はそういうと、少し悲しそうな顔をした。悲しい顔をすると、醜い顔が余計に醜くなった。
新魔王は、ちょっと呆れた。なんだ、簡単な事ではないか、と、心の中で安堵した。
少女の心の鏡だけが清らかに輝いていたのだが、案外すぐに曇らせることができそうだった。
「よく聞け、この俺が新魔王なのだ。おまえの両親を殺したようなものだな」
新魔王はそう言い、少女の反応を見た。
少女は一瞬、あっけにとられて新魔王の顔を見上げた。けれど、その顔が憎しみや悲しみで歪むことはなかった。魔王様ですか、まあ、と少女は呟くと、急いで体の埃を払い、さっと家の中を見て、散らかっていないか確認したようだった。
そして、ぶきっちょで吹きだしたくなるような動き方で、腰をかがめて穴だらけのスカートを広げて会釈をし、ようこそ、どうぞお入りくださいと言ったのだった。
**
新魔王は粗末なテーブルの席に座り、家の中を見回した。
海からの冷たい風が常に吹き込んでいる。暖炉が灯されていたが、十分に温もっているとは言い難かった。
少女は一生懸命にお茶を用意して、新魔王の前に置いた。そして、にこにこ醜い顔で笑っているのだった。
「まずい、くさい、不器用、最悪」
と、新魔王は言った。
「そして、おまえは何てみっともないんだろうか。生きている価値すらない」
少女はちょっと切なそうにした。そして、ごめんなさいと言いながら、お茶をひっこめた。
それでも少女が憎しみの表情を見せようとしないので、新魔王は苛立った。
おまえは豚のようだな。なんて酷い服なんだ。そして、声も酷い声だ。この家だって豚小屋のようだな。おまえは頭が悪いのだろう。どうにもならないゴミクズだな。
いくらでも悪口が出て来た。どうだ、これで憎いだろうと少女を見るが、少女はただ切なそうにしているだけで、怨恨の色を浮かべてはいない。
新魔王はそろそろ嫌になって来た。なにをすればこの少女が自分を憎むだろうと考えた。
「おまえは俺が憎いだろう。両親を殺したようなものだからな」
と言ってみたが、少女はきょとんとして「いいえ、魔王様はとっても美しくて素敵な方です、まるでおとぎ話の王子様のようです」と答えた。その眼に憧れの様な輝きがあるのを見て、新魔王は頭を抱えたくなった。
やめてくれ、そんなふうに俺を見るな。
こうしているうちに、宮殿にある、あの、たった一つ光り輝いていた清い小さな鏡は、ますます際立って輝いているのに違いなかった。
少女は実際に新魔王を見て、恋心さえ抱き始めているかのようだった。うっとりとして、新魔王を見上げ、馬鹿のように口を開いて笑っているのだった。
「おまえば馬鹿かー」
と言ったら、少女は非常に嬉しそうに「うふん」と笑った。魔王は床でのたうち回りたくなった。
そら、宮殿のあの小さな鏡、ますます輝きだしている。
その証拠に、窓から覗く澱んだ空が、うっすら明るくなってきたような気がした。そんな馬鹿なと新魔王は思ったが、確かに空を覆う雲が薄れているのだった。
「馬鹿、三段腹、ぱつんぱつんの尻、貴様の屁はさぞ臭かろう」
と、子供の様な悪口雑言を投げつけてみたが、少女には全然効かなかった。それどころか少女はますますにっこりとした。
「うふっ、嬉しい」
少女は言った。
嬉しいだと。
新魔王は耳を疑い、呆然と立ち尽くした。
そうしている間に、空はどんどん晴れて行き、海鳴りは穏やかなものに変わっていった。
唖然とする新魔王の前で、少女は今にも踊りだしそうなほど、喜んでいるのだった。
**
「嬉しいわ、ほんとうにありがとうございます」
少女は涙すら浮かべていた。
鼻がつぶれ、目と口が真ん中により、そばかすで埋もれたような顔で、にっこりと笑いながら泣いていた。
愕然とする新魔王の前で、少女は祈りのかたちに手を組み合わせ、言ったのだった。
「わたしは生まれつき、こんな姿ですし、家もこれほど貧しいし、誰も口すらきいてくれませんでした。家に寄りついてくれた人すらいなかったのです。けれど今、魔王様がうちに入って下さって、わたしに言葉までかけてくださった。ああ嬉しい、こんなに嬉しいことはありません」
ぽろぽろ透明な涙が少女の目から零れてくる。
そして窓の外は、雲がうっすら晴れて行き、僅かではあるが太陽が覗いていたのだった。
ちゅちゅん。
小鳥のさえずりが楽し気に聞こえて来た時、新魔王は体からすうっとなにかが抜けてゆくのを悟った。それは、魔力の一部が失われる感覚だった。
このままではまずい、と、魔王は思った。
まず、一刻も早くこの少女から離れた方が良い。側に居続けるほど少女は喜んでしまい、国に光が差すことになる。あの鏡はますます輝くことになる。
「気持ちが悪い。おまえなど心底嫌いだ。俺のことをそんなふうに思うおまえなど、はやく死ねば良い、いっそ失せろ」
と、新魔王は吐き捨てた。
すると、また言葉をかけてもらえたことで大喜びした少女が、うれし泣きしながら新魔王の体にとりすがってきた。新魔王は心底からぞっとして、「触るな、豚め」と言うと、服の裾に口づけしている少女を力いっぱい蹴った。
少女はあっけなく宙を跳ねあがると、テーブルの角に頭を打って目を見開いた。
嬉しさに満ち溢れた幸せな表情のまま、少女はこと切れた。
「虫に食われて腐るが良い」
新魔王は、もう動かなくなった少女に向かい、吐き捨てるように言った。そして、黒い立派な衣服をひるがえし、また一瞬のうちで魔王の宮殿に戻ったのである。
**
無数にある曇った鏡たちは、国の人の心。
心の持ち主が死ぬと、鏡は割れて朽ちる定めである。
少女が死んだので、あの、ひとつだけ清らかに輝いていた小さな鏡も粉々に砕けて壁から落ちていた。暗闇の中で光る欠片たちは、鮮やかな青い空や透明で美しい海の波を映し出し、エメラルドやサファイヤのように煌めいているのだった。
新魔王はその欠片を捨てさせた。
宮殿は再び居心地の良い、完全なる闇に包まれた。
そして、一瞬覗いたた温かな太陽を、再びあつぼったい灰色の雲が覆い隠し、海鳴りは以前よりさらに冷たく恐ろしく鳴り響くのだった。
魔王の国は憎しみの国。
人々が憎悪すればするほど魔力は強くなる。
空の本来の美しさ、海の本当の温かさを、人は知ってはならない。
虚構の美しさを信じ、冷たい心のまま生きてゆかねばならないのだ。
「今度から鏡の点検をさらに強化しなくては。ちょっとでも危険なもの、厄介な兆しが見られたら、早いうちに摘み取っておかねばならないだろうから」
新魔王はそう思った。
もう死んでしまっていると判っていても、脳裏にはあの醜い少女のうれし泣きがこびりついていた。
それは、新魔王にとって、鳥肌がたつほど嫌な、恐ろしいものなのだった。
「絶対に、あんなものは、いてはならないのだ」
**
空はますます黒く翳り、海は常に真冬のように冷え込んだ。
季節を無視して流氷が押し寄せ、大地には、強い芋すら実らなくなった。
それでも人々は、魔王の魔力のおかげで美しいものに囲まれ、豊かに暮らすことができていた。
奏でられる楽の音。
この世のものとも思えぬほど美しい彫刻や、宝玉の飾り物。
優雅な腕をした白い踊り子や、体までとろけそうな美麗なる歌声。
それらのものが、新魔王の周りでは、ますます豊かにあふれるのだった。
国は永く栄えるだろう。
父王の時代をしのぐほどに。
新魔王は、血の色の酒を飲み、宮殿から冷たい国の様を見下ろす。
美しい羽織り物が荒れた風にあおられ、髪が豊かになびく。
欲しいものはすべて手に入る。
どこの誰も、魔王には叶わぬだろう。
しかし何故だろう、新魔王は時折、自分のどこかに針で疲れたような、小さな、だけど確実な痛みを感じることがあった。
それは逃れがたく、体をよじりたくなるような痛みであった。
その痛みを感じる時、きまって空の雲は微かに薄れて日差しが覗き、海の風は優しいぬくもりを混じらせる。
新魔王はすぐさま己を律し、そんな痛みを自分の中から蹴飛ばして追い出した。すると再び空は暗黒の雲に覆われ、海は真冬の過酷さに包まれるのだった。
**
「いつか俺が死ぬ時、俺は息子に伝えなくてはならぬ」
新魔王は痛みに耐えながら思うのだ。
断じて、誰からも好かれてはならぬ、愛してもならぬ。
断じて。
断じて、だ。
新魔王は居心地の良い闇の寝床で眠る。あけがたの不安定な夢の中で、醜い少女の夢をよく見る。
少女のぞっとするような顔の造りや、腹のたってくるような干からびた声に、夢の中で魔王は眉を顰める。
だけどいつでも、夢が朝の中に溶けだし、今にも醜い少女が消えてしまいそうになる時に、どうかもう一度、その眼を俺に見せろと言いたくなるのだった。
その、清浄な目。
その目には、空は青く、海は優しく映るのだろうか。
そして、この俺は美しく強い王子に映るのだろうか。
うなされ、のたうち回りながら、新魔王は目覚める。
そうして起き上がって部屋を見回して、相変わらずぶあつい闇が宮殿をくるんでいるのを知り、ああ今日もこの国は豊かだ、魔力に護られているのだと、安堵するのだった。
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