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熱が下がらないまま現地での簡単なリハーサルを終えた彼は、マイクを置くなりフラリとよろめいた。客席側から見守っていた僕が思わずステージに飛び乗って駆け寄ると、会場のスタッフ達がざわついたのがわかった。曖昧に挨拶をして、その場を離れる。
楽屋まで大人しく僕に肩を抱かれながら歩いていた彼は、ドアが閉まった途端に腕を振り切るように離れて畳の間に突っ伏した。その背中が何者も寄せ付けない絶対的な拒絶を物語っているようで、近付くことさえ躊躇われた。部屋中をビリビリとした緊張感が支配する。その様子に、手負いの獣、という表現が浮かんだ。
まさに。
僕が傷付けた。
夜中に何度も魘される身体を謝りながら抱き締め、僕自身は一睡もすることなく彼の部屋で朝を迎えて、そのままここへ連れてきた。
水分と、昨日駆けつける途中で買ってきたフルーツゼリーと薬。何もいらないと言う彼に最低限のものを摂らせることしかできないまま、シーツにくるんだ大切な身体を後部座席に横たえて車を走らせる自分を、まるで役に立たない道化のようだと思いながら。
優しくする余裕なんてなかった。
自分よりもはるかに小さく頼りない、しかも熱に苦しむ身体に、
大人の、健康な僕が、
過去に彼を襲った男共と同じ所まで堕ちて。
劣情の赴くまま、手を下した。
自分の欲望がここまで止められないものだとは思わなかった。厳しく戒めていた禁じ手を、よりにもよって一番大事な時に犯すなんて。彼の負担がどれ程だったか。
「みなと君……」
呼びかけてみたものの、心配の言葉も謝罪の言葉も受け入れる空気を持たない背中に、なんと続けてよいかわからず口を噤む。
「……」
「……本番は」
しばらく楽屋を充満させていた沈黙を割ったのは意外にも彼からだった。
「本番は途中で倒れても絶対に出てくるなよ」
「み、なと……くん?」
「最後まで歌いたい、から」
――せっかく佐野が準備してくれた舞台、最後まで自分の足で立って歌い切りたい。
――今日こそは、お前に甘えたくないんだ。
背を向けたまま伝えてくれる健気な想いにハッとさせられて、もしかしたら、と勝手な考えが浮かぶ。
彼が今しようとしていることは拒絶なのではなくて、いわば自立のようなものなのかもしれない。確かにこの舞台に立つ彼の姿を、ここから羽ばたく姿を、一番待ち望んでいたのは他でもない僕だった。そんな僕に彼は、その待ち望んだ姿を自分の力でしっかりと見せてくれようとしてくれているのかもしれない。そう考えるだけで胸が詰まった。
刻々と、容赦無く本番の時間は迫ってくる。時計を確認するともう準備しなければいけない時間になっていたので、僕は折をみて声を掛けた。
「そろそろですが、着替えられます?」
「あぁ、うん」
返事はしたものの、彼は戸惑うようにキョロキョロと落ち着かなかった。
「手伝いましょうか」
「いや、いい。向こう向いといて」
「へ?」
「や、ちょっと。恥ずかしい」
「?」
「察しろよ! 昨日、違う意味で脱いでしまったから恥ずかしいんだってば!」
全く目を合わせずに怒鳴られた言葉に、思わず顔が熱くなる。
「ご、ごめんなさい! 出て行きます!」
悲鳴のように言い残して、慌てて楽屋の外に出た。ドアに背中をべったりと付けて、ズルズルとへたり込む。
ああ、だめだ。
今まで無心に彼の心配ばかりしていたけれど、途端に昨夜のことが生々しい感覚として蘇ってきた。不覚にも身体の芯がズク、と重くなる。
昨夜……最後には繋がったまま意識を手放した彼は、けれどその行為中には一度も抵抗を見せることはなく、むしろ柔らかく受け入れてくれた。ただ初めに押し入るときにだけ、どうしても漏れそうになる拒絶の言葉を飲み込むように唇を噛んだのが、堪らなく愛しかった。
縋り付くように絡められた細い指の感触を思い返すように手を開いてみたその時。
「こんにちは」
突然声を掛けられて我に返る。
振り向くと先ほど見知ったばかりの顔がそこに有って、急いで記憶を巡らせた。確か彼の次に歌うアーティストのマネージャーだ。事務所は違うけれど、同じ系列の会社だったから先程軽く挨拶をしたのだった。
「彼、調子悪そうですね」
「え? ……あぁ、少し風邪気味で」
「ふーん。ただ一人の担当タレントの体調管理も出来ないんですか? 敏腕マネージャーさん?」
汚い笑い方をする中年男が、唖然とする僕に一歩ずつ近付く。
こいつ、なんで知ってるんだ。
何を、どこまで……
「いくら具合がいいからって、夢中になって無茶させちゃダメですよ?」
醜く歪む顔を近づけて囁かれたその一言で全身が沸騰した。
「佐野!」
背中のドアが開いて、今にも殴りかかろうとしていた手を掴まれたと思ったら、そのまま楽屋へ引き摺りこまれた。
「え、ちょっ……」
「いいから関わるな」
「だって! あいつ…!」
まだ怒りで全身の震えが止まらない。
――あいつが……あなた、を……?
僕からの視線での問いに、彼はしばらく逡巡した後、目を伏せて小さく頷いた。
知りたくなかった。でも尋ねてしまったのは自分。
心臓が音を立てて軋んだ。
「殺……してやれば良かった……!」
「さの」
よく磨かれた声で咎めるように名を呼ばれる。
「落ち着いて。今お前が問題を起こしたりして傍にいてくれなくなったら、それこそ俺が耐えられない」
……ああ、そうだ。今は大事な時だ。下手なことはできない。
わななく拳を小さな両手で包まれると、少しだけ自分を取り戻せた。
「ごめんなさい。軽率でした」
取り乱している場合ではない。それに、僕はあいつを殴る資格はないんだ。そう思い至ってゾっとする。そうだ。全く、そんな資格なんてない。僕が殴らなきゃいけないのは……
「佐野、落ち着けって」
再び我を失いそうになる僕の身体を彼が揺さぶって引き留める。
「ねえ、佐野!」
グラグラと揺らされるがままの僕に無理やり視線を合わせて彼は、
「俺、お前に身体を許した」
「……!」
そんなことを言う。
「お前だけだ。わかるか?」
「え」
「他の奴らには一度も許した覚えはない。勝手に奪われただけなんだから」
「あ……」
「佐野にしか……、佐野だったから……」
そんな許しの言葉を、あなたは
「だから、あいつとお前は全然違う」
こんな僕にくれるのか……。
「だから……お願いだから」
そこまで言うと、僕の腕を掴んでいた指から、ふ、と力が抜けた。
「ごめん、ちょっと今ので疲れた。呼ばれたら起こして」
そう言って電池が切れたように僕の胸に寄りかかった。抱き締めた身体から伝わるのは、さっきよりも高い体温。
熱が上がってしまっている。
さっきのことも、そもそも昨夜のことからしても、こっちが支えないといけない立場なのに逆に足を引っ張ってしまっているではないか。不甲斐なさで、抱き留めた腕に力が入る。もう一度スポーツドリンクだけでも口に含ませ、そのペットボトルで額を冷やしてやりながら、されるがままに目を閉じている彼と一言も言葉を交わさないまま出番を迎えることになった。
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