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裏に移動した時にはすでに前のアーティストの演奏が終わっていて、暗転になっていた。セッティングが整い、ふらふらとステージに上がる姿を袖から見守る。
どこか地に足が付かないような歩き方に不安を募らせていると、マイクを持った途端にガラリと彼の目付きが変わるのが見て取れた。
ドラムのカウントでイントロが始まる。オープニングは、デビュー曲を選んでいた。
決して激しくない曲調だが、彼の美しい声を活かしたクラシカルなメロディで高音も多い。声変わりをした今でも原曲の雰囲気を守るためにキーを下げたくないと言って頑張っていた曲だった。聞いているこちらが緊張で身体が強張ってくるのがわかる。
なんとか本来の実力を発揮して欲しいと願うマネージャーとしての自分がいる一方で、どうか無理しないで欲しいと、愛でたばかりの身体をひたすら案ずるただの男としての自分が、そこにあった。
ふと息を飲むような美しいファルセットが耳に届く。そこから自然に地声へと繋げる綺麗なグリッサンドが相変わらず素晴らしいと思う。デビューの時のインパクトも凄かったけれど、成熟した今の歌い方も深い魅力があって、とても印象的だった。
無事に一曲目が終わってホッとしたところで、後ろから人の近付く気配を感じた。
「素晴らしい声だね」
「チーフ!」
「君たちの努力の結果だな」
「いえ、僕は……」
自己嫌悪で俯く僕なんかを気にも留めずに、さらに口を開く。
「あの日、感謝されたよ」
「え……?」
「僕が事務所を去るときに、わざわざ頭を下げて。自分に佐野を付けてくれてありがとうって。……あの事件以来まともに目も合わせてくれなかった子が、あんなに素直に礼を言うなんて」
記憶よりも少しだけくたびれたその人は、真っ直ぐにステージを見つめていた。
「いい顔をして歌っている。愛されている自信と、一番大事なものを見つけた顏だ」
君に託した甲斐があったよ、と言ってやっとこちらを向いたチーフの表情はまるで花嫁を送り出す父親のそれで、僕は今までの道程と昨夜犯したばかりの罪とへの両極端な感傷でぐちゃぐちゃになりながら、せっかくだから客席で聞いていってもらうようにと言葉少なに裏口から案内するのが精いっぱいだった。
舞台袖に戻った僕の耳に、アドリブのシャウトが飛び込んでくる。
それをきっかけに次の曲が始まった。今までの近寄りがたいイメージを変えるためにアルバムの中心に据えた、前向きで派手なサウンドに仕上げたアップテンポナンバーだ。
見ると、身体をくの字に折り曲げて、もう一度叫ぼうとしているところだった。両手で抱えるように持ったマイクを口元ではなく額に付けて。祈るように。
……血を、
吐くのかと思った。
赤くなった目で客席を見渡しながら、どこにそんな力が潜んでいたのかと思うような声で叫んで、そのままの声量で歌詞に入る。
僕の欲望を全て受け止めてくれた小さな身体が、今は全てを吐き出すように声を響かせている。その骨格の華奢さ、皮膚の危うい薄さ、そして力強い声の通る場所がどれだけ繊細で脆いかも、昨夜、身をもって、知った。
命を振り絞るように歌うその姿に、「もういいから。それ以上やると死んでしまうから。どうかもう、休んで欲しい」と、飛び出して行ってそう懇願したくなる。
僕の心情をよそに、続く二曲を凄まじいテンションで歌い終えた彼は、ラストを前に汗だくのシャツを脱ぎ捨てた。
あ。
と思ったときにはもう、彼の上半身は大勢の観客に晒されていた。
それは、ほんの十何時間前に、手で、唇で、触れた場所。何処にも痕跡を残さなかった保障はない。そのくらい、のめり込むように夢中で愛した。
咄嗟に背けかけた視線は、あまりにも美しい姿にいとも簡単に奪われる。
確かに、楽屋で目にしなくて良かったと思う。間近で直視してしまったら、きっと平静ではいられなくなっただろう。
無駄を削ぎ落としたような滑らかな肌を滴る汗がライトで光って、キラキラと落ちる。
……綺麗だ。
昨日、あんなに穢してしまったのに。
撫でて、吸って、齧って……貪るように喰らいついてから、まだ一日も経っていない。
何処までもしなやかで柔い彼の奥の奥にまで入りこんで、何度も醜い欲の塊をぶちまけて。
……彼にも吐き出すように促して。
外側からも内側からも汚したのに。
それなのに、
どうして、こんなに綺麗なんだろう。
光に溢れたステージのすぐ横は打って変わったような暗闇で。その暗く沈んだ空間から僕は、無意識に唇を噛み、拳を握り締めながら、眩しい輝きを見守っていた。舌に鉄の味を感じ、爪の食い込んだ皮膚が破れて血が滲むのを目にするまで、自分のその常軌を逸した力の入れようにも気付かなかったくらいに。
意識の遠くで割れるような拍手と歓声が聞こえる。
永遠に感じられるような約三十分のステージを圧倒的な声で歌い切って戻ってきた彼は、闇に紛れた僕を見つけて
「なんて顔してんの」
そう言ったきり、その場に崩れ落ちた。
慌てて掴んだ細い腕が彼の汗と自分の血液で滑る。血と欲に塗れた汚ない手で彼に触れるのを、今更ながらに躊躇った。
病院も医者も嫌だと言う彼を車に乗せ、自宅へ送り届ける。昨夜の名残のするシーツを整えてベッドに下ろすと、弱々しく服の裾を掴まれた。いつもの癖だ。
「佐野……。俺、歌えてた?」
薄く開けた瞼の隙間からの儚い眼差しにさえ心を捉えられて、息が止まりそうになる。色んな感情が一度に噴き出て、咄嗟に言葉を紡げなかった。
「素……晴らしかった、です」
ようやく絞り出した声は、やはりあのときのように震えていて。
「お前、最初のときも、そう言った」
――佐野がそう言うから、俺は……
消え入りそうな、でもよく澄んだ声でそう口にすると、そのまま彼は眠りの淵に落ちていく。
服を掴んだ形のままに力の抜けた左手を取って、その甲に口付けた。さっきまでの壮絶な迫力が嘘だったように静かに眠る、そのあどけない寝顔を閉じ込めてしまいたくて。
大事に守ると約束した、
大切な、
大切な……。
狂おしいほどの愛しさが込み上げて、頬を濡らす。
止め処なく溢れる涙の行方さえわからないまま、ただ、小さな手に口付けながら泣き続けた。
(完)
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