……その声を愛した、

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名の知れた芸能事務所へ就職してすぐに配属されたのは、十一歳という若さで天才歌手と謳われた少年の付き人だった。 その鮮烈なデビューから早三年。藤咲みなとは相変わらずメディアで引っ張りだこだったが、歌唱力そのものよりも、わかりやすい若さと美貌ばかりが注目されるようになって、あまり歌声を聞く機会はなくなっていた。昨年ヒットしたサスペンス映画での寡黙で陰のある謎の美少年役は本当にはまり役だったとはいえ、やはりまた歌っている姿を見たいと密かに思っていた。 だって、本当に凄かったのだ。細い手足、透き通るような肌。精巧にできたフランス人形のように整った顏立ち。全てが華奢で儚い印象なのに、薔薇色の唇から紡がれるボーイソプラノは凛として力強く、のびやかだった。普段はあまり表情を崩さない彼も、歌っているときだけは切なげに感情を昂らせて、特に高音を奏でるときの伏し目がちに少し眉を寄せる様子がとても十代前半とは思えない色気を漂わせていた。 僕がこの事務所を志望した理由には、多分に彼の存在があった。けれどまさか、入社してすぐに彼のもとで働けるなど思いもしなかった。そのくらい、特別な人物だったのだ。 実際に会ってみると、彼からは驚くほど荒れた空気を感じた。多感な時期に否応なく大人の世界に放り込まれたせいか、子供らしさを一切排除した瞳は如何なる歩み寄りも跳ねつけるような冷たい光を放っていて、それは彼を目前にして一瞬でも浮足立った自分の心を即座に凍らせるほどだった。大人を小馬鹿にするような態度で仕事場での評判が悪くなったり、スタッフとも上手くいかなかったりという噂も聞いた。 そんな彼にとって、まだ仕事に慣れてなくて鈍臭そうに見える僕は格好のオモチャだったのだと思う。 ある日、ドラマの撮影で彼が劇中で歌うシーンに付き添うことになった。今回は幼いころに母親に捨てられた少年の役で、バーの店主に拾われてそこで生活し、いつしか店の片隅にあるステージで歌うようになるという筋書きだ。 あと少しで本番という時、セット裏の暗がりでいつの間にか寄り添うように隣へ来た彼は、自分の魅力を充分に理解しているような妖艶な微笑みを浮かべながら、こっそりと耳打ちしてきた。 「ねえ。さ……の? って、言ったっけ?  タバコ買ってきてくれない?」 「え。藤咲さん、何歳でしたっけ」 「なにシケたこと言ってんの? もうタバコどころか酒もセックスも経験済みだってば。何を今更」 ぐ、と言葉に詰まった僕を揶揄するようにクククと喉を鳴らして「なにその童貞みたいな反応」と面白がる。 「見つかったら怒られるから、内緒でね。佐野にしか頼めないんだ」 「でも……」 まだ僕は下っ端で勝手な行動は許されていない。 「いいから。ごまかしておいてやるから、今すぐ行って来て」 ね? と小首をかしげた上目遣いで強請られると、もう逆らうことはできなかった。 指定された銘柄はロビーの自販機では手に入らない物。仕方なく最寄りのコンビニまで足を伸ばして戻ってきたら、スタジオが騒然としていた。 「佐野君、どこに行ってたんだ」 チーフマネージャーが僕を見つけるなり、険しい声を飛ばした。 収録を始めようとしたら彼が「佐野さんが急にどっか行った」と言い出し、構わず進めようもしても「佐野さんがいないと歌えない」と駄々を捏ねるので手を焼いていた、ということだった。 「……申し訳ございませんでした」 煙草の入ったビニール袋を咄嗟に戸惑いの感情と一緒に上着のポケットに隠して、スタッフ全員に頭を下げる。 「藤咲さん?」 悪びれずに近寄ってくる彼に、どういうことなんですか? と聞こうとした矢先、 「佐野さん、だめじゃない。いくら急にタバコ吸いたくなったからって仕事中に抜け出したら」 周りに聞こえるような声でそう言われた。 信じられずに顔色をうかがうと、確信犯的な嘲笑で唇を歪ませている。スッと懐に入り込んでタバコを取ろうとした手を、怒りにまかせて遮るように掴んだ。自分の体格が良いほうだとはいえ片手で掴んでも指の半分近くが余ってしまうようなその手首の細さに驚きつつ、睨むように向けられる視線を頭一つ分だけ上から受け止める。手のひらに感じる柔な骨の感触が、彼がまだ小さな少年でしかないことを物語っているのに、見上げる瞳は大人を挑発するのに充分な強さを持っていて、気を抜くと負けそうになった。 「藤咲さん、心細くさせてごめんなさい。ちゃんと戻ってきましたので、もう歌えますか?」 ここで引いたら駄目だ。僕は苛立ちを拳に込めて、冷静に言う。彼の瞳はそこで初めて、怖れのようなもので揺らいだ。 ……それは否応なく身体に植え付けられた圧倒的な腕力の差に対する恐怖だったんだということに、その時は気付かなかった。 黙ってコクリと頷いた彼は、僕から解放されるとカメラの前へ静かに移動した。音が僅かに歪んだピアノでイントロが演奏されると、目を伏せてラフなTシャツに隠されたしなやかそうな背筋をしゃんと伸ばす。丁寧に歌いだしたのは、古いジャズのバラードだった。初めて直接耳にするその歌声は記憶よりも低くて弱々しかったが純度が高く澄んでいて、奥深い秘境から人知れず湧く清水のように、しん、と僕の心に沁みこんだ。 収録は一発OK だった。スタートが押して緊迫していたスタジオの雰囲気も途端に緩む。さも当たり前という風に戻ってきた彼は、呆然としている僕を見て顔を顰めた。 「なんなの、そのバカ面」 「素……晴らしかったです」 その声は感動で震えていたのかもしれない。 「は?」 「歌、素晴らしかったです」 もう一度、彼を見つめてはっきりと言うと、彼は少し驚いたように小さな拳を口元に当てて、思わずというように笑みを零した。 「だろ?」 そう言って照れたように笑った顔が年相応に可愛らしくて、しばらく僕の心を捉えて離さなかった。
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