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その一件で思いがけず懐かれたらしい僕は、それから毎回のように彼の楽屋に引きずり込まれ、身の回りの世話を全てさせられるようになった。
それ自体は仕事の範囲内だからいいのだけど。
「なんで今日のメインって焼き魚なんだよ。食べられないじゃないか」
「日替わりのでいいって言うから……。嫌いなんですか?」
「違う。ほぐせないだけ。佐野、やって」
「もう……。今までどうしてたんですか」
押し付けられたプラスチックの器と箸を受け取って、あきれたように言う。
彼は自分の空間に他人を入れるのを嫌うと、先輩マネージャーから聞いていた。用事があってもなるべく楽屋には入るなと教わっている。それが、今はこの状況。
「今までは全部捨ててた」
「え、勿体ない」
「仕方ないじゃん。あ、できた? あーん」
ほぐし終わった魚を見て、彼が口を開ける。小ぶりな歯が行儀良く並んだ口腔から赤く濡れた舌が覗いた。
「食べるのは自分でできるでしょう」
「いいじゃん。ついででしょ?」
「……仕方がないですね」
スーツの袖をクイクイと引っ張られ、そのまま魚どころか他の御菜もご飯も全て食べさせてやる羽目になる。それでも一口ごとに嬉しそうに咀嚼する様子が、幼少期に親に甘えられなかった子供が成長したときにその事を必死で取り戻す行為のようにも見えて、とても無下にはできなかった。
「佐野〜。お茶〜」
食べ終わって満足そうに足をプラプラさせながら伸ばされた手に、ペットボトルの蓋を開けて渡してやる。そのまま口を付けて嚥下した彼の尖った喉仏が、コクリと動いた。
「あー。満腹になったらタバコ吸いたくなってきちゃった。このあいだ買ってきてくれたやつ、ちょーだい」
「だめです」
「なんで。ちょーだいよ」
「だめですってば」
「ケチ。もういい。他の奴に頼むから」
「……藤咲さん」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「もう藤咲さん相手に、未成年だからとかヤボなことは言いません。でも頼むから喉を大切にして下さい。この前の歌っている時は良かったけど、普段よく声が掠れているでしょう」
僕を凝視していた彼の目が嫌そうに歪められた。
「いい声をしているんですから、大事にして下さい」
そう言って、喉元を労わるように撫でようと手を伸ばしたそのとき。
「さ……触るなっ」
その手を思い切り振り払われた。
驚いて見ると、自分で自分を守るように抱き締めた彼の歪められたままの目が、零れ落ちそうに潤んでいる。咄嗟に謝ろうとした僕から逃れるように、彼は身をひるがえして出て行った。
パタン、とドアの閉まる鈍い音を背後に受け止めながら、主の居なくなった楽屋で振り払われた手を見つめる。
震えていた。
一瞬だけはじくように触れた指先が。
そしてあの日……歌の収録の前に強く掴んでしまった、細い、折れそうなほどに細い手首も。
同じように、小さく、震えていた。
「藤咲さん……」
思い返せば彼は、いつもこちらを煽るように近くまでは擦り寄ってくるのに、紙一重の所で肌には直接触れようとしたことはなかった。怖がらせるつもりはなかっただなんて言い訳しても遅い。罪悪感と後悔に苛まれて、僕は時間の許す限りそこに立ち尽くした。
その後の仕事では、彼は最初の頃のよそよそしい態度に戻ってしまっていた。話しかけようとしても無視をされ続け、頼み事も他のスタッフにしているのを目にしてしまう。少なからず沸きだした嫉妬のようなものを、奥歯を噛みしめてやり過ごした。
やはり調子に乗って踏み込みすぎたのか。どういった距離でいるのが正しいのかすら、すでに判断がつかない。近寄ろうとすれば避けられてというのをしばらく繰り返したすえ、間の悪いことに次の現場への移動にはどうしても僕しか連れて行けないことになった。
「藤咲さん、頼むから乗って下さい」
「い、や、だ」
地下駐車場の薄暗がりで案の定、押し問答が始まる。無理やり車に押し込むようなことは絶対にしないと決めた僕は、長期戦になるのを覚悟して大きく溜め息を吐いた。
「じゃあ、気が変わったら自分で乗って下さいね」
そう言って運転席側に回ろうとした時、彼の縋るような声に引き留められた。
「お前は、俺の声を守ってくれるの?」
「え」
「この前、喉を大事にしろって言ったじゃん。俺が大事にしたら、佐野もそうしてくれるの? 俺を……大事にしてくれる?」
「当たり前じゃないですか」
「……そうだよな。俺はお前らにとって商品だもんな」
あまりにも僕が事もなげに言い過ぎたのか、彼は少し戸惑ったあと自虐的にそう言った。
「違いますって。僕は本当に藤咲さんの歌声に感動したから、ずっと聴いていたくて。その喉を粗末にして欲しくないと思って。……だから、どちらかと言ったら事務所も商品も関係なくて、僕の我儘です」
ごめんなさい、と頭を下げても反応が返ってこなくて、その姿勢のまま旋毛から足の爪先までまじまじとした視線を感じながら許されるのを待つ。ああ、こんな見られ方、前にもあったなと思っていたら、プッと吹き出す音がしてようやく顔を上げた。
「変な奴」
恐らく最初の出会いで見せられたような冷たく蔑んだ表情をしているんだろうという想像とは裏腹に、そこにあったのはこの前初めて魅せられてからもう一度見たいと思い続けていた、屈託のない笑顔だった。
「さっきのこと……」
ようやく乗り込んでくれた後部座席から遠慮がちな声が聞こえた。
「さっき言ったこと、約束だよ」
「はい?」
「大事にしてくれるんだろ?」
「しますよ、大事に」
「喉だけじゃないよ。俺のこと全部だからな?」
「ええ」
「ホントに?」
ルームミラー越しにぶつかる強い眼差しを、あたたかく見つめ返す。
「ええ。約束します」
「絶対だからな」
最後は返事の代わりに微笑んでみせると、彼はやっと満足したように目を閉じた。
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