1/2
441人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

 十九時までのシフトを終えて、夕飯の弁当とビールを購入してコンビニを出ると、自動ドアのすぐ隣に長身の男が立っていた。 「(かなで)さん、お疲れ様」  そう言って目尻を下げて笑うのは、蒼梧(そうご)だ。マジで待っていやがったのか。  オレはちょっと遠い目になって、無言で奴の横をすり抜けた。蒼梧が犬のようにオレの後をついてくる。 「おまえなんなのマジで」  オレはバイト後の疲れもあって、ついイライラとした声を出してしまった。  蒼梧がへにゃっと笑って、 「今日は喋ってくれる日? 疲れてんの?」  と、会話にならない言葉を返してくる。 「……もういい。さっさと帰れよ未成年」 「え~。そんなこと言わずにもっと話してよ。俺言ってんじゃん。奏さんの声も好きだし、本体も好きだって」  出た、とオレは思った。  蒼梧の好き好き攻撃。  初日に、おにーさん名前は?と尋ねてきたこいつはその直後に、佐久間さんにヒトメボレしちゃった、とわけのわからないことを言って、それ以降オレに好きだ好きだとめちゃくちゃ軽い好意を押し付けて来るのだった。  面白がったワカナちゃんが、 「いいじゃんクマちゃん。こんなイケメンに好かれてさ~。付き合ってあげなよ」  と、実にいい加減な後押しをしてくる。  オレは確かに、生まれてこの方男しか好きになったことがないような正真正銘のゲイだが、それを公言しているわけじゃなから、こんなふうにオープンな告白を受けても嬉しくもなんともない。  それに、オレの初恋も初デートも初キスも初セックスも……オレのすべての初めてはつまりあの元カレとセットになっていて。  もう二度と誰かを好きになったりはしない、と。  あいつに振られたときにオレはこころに決めたから。  だから真実味がひとつもない蒼梧の「好き」も、真に受けることはないのだった。 「奏さ~ん。前見て歩かないと危ないよ」 「うっせ」  蒼梧を視界に入れるのが嫌で俯いたまま歩いていると、年下の男に注意されてまたイラつく。  乱暴に言い返したオレの肘を、不意に背後から蒼梧が掴んできた。  あ、と思う間もなく、引き寄せられて。  オレはばふっと蒼梧の胸にもたれかかる体勢にさせられた。  なにをするんだ、と言い返そうとしたオレの脇を、猛スピードの自転車が走り抜けてゆく。   「ほら危なかった」  目尻を下げて、蒼梧が笑った。  オレはぼんやりとその整った顔を見上げ……ハッと我に返って蒼梧の腕の中から抜けだそうとした。  けれどオレの肩を抱いた男のちからはゆるまない。 「……っ、おい、離せ」 「や~、せっかくだし、もうちょっとこのまま」 「バカっ。ひとに見られるっ」 「いいじゃん見られたって。奏さん、細いね~。コンビニ弁当なんてカロリー高いものばっか食べてるくせに、栄養どこに行ってんの?」  蒼梧の手が、さわさわと腰の辺りを撫でてくる。 「おいっ」  逃れようとしたのに、却って強く抱き寄せられたオレの、首筋に顔を突っ込んで。蒼梧が、そこでくんくんと鼻を鳴らす。  「あ~、奏さんいい匂い。香水……じゃないよね? 奏さんの体臭だ」  くすり、と大人びた顔が笑って。  腕の中にオレを閉じ込めたままで、蒼梧が視線を合わせてきた。  普段は間抜けな犬のようにふにゃふにゃ目尻を下げているくせに、こんなときだけ一端(いっぱし)の男の表情で。  じ、とオレを見つめてくる眼差しに、オレの体温がカッと上がった。 「知ってる? 相性って体臭でわかるんだって。いい匂いって思ったら、遺伝子レベルで魅かれてるみたいだよ? 奏さん、俺はどう?」  言葉の最後で、オレの目の前に男の首筋が差し出された。  なめらかな肌に誘われるように、オレはつい、すん、と鼻を鳴らしてしまう。  こいつとこんなにくっつくのは初めてで……ふわりと漂って来た香りに、オレは狼狽した。 「……なんも匂わねぇよ。離れろバカ」  震えそうになる体を、必死に落ち着かせて。  オレは蒼梧の腕から抜け出そうと身じろぎをした。そんなオレを、さらに強く抱き込んで。 「そんなはずないよね。ちゃんと嗅いでよ」  低く真剣な声が、オレの鼓膜に吹き込まれる。 「っ! くそっ、離せっ」  オレはとうとう、手加減のないちからで蒼梧の腹を殴った。オレの暴力を予想してたのか、硬い腹筋がオレのこぶしを跳ね返す。  それでもノーダメージではなかったようで、軽く咳き込んだ蒼梧が、するりとオレから離れた。 「ごほっ……。奏さん、どうだった?」 「うるさい。二度とオレに近付くな。警察呼ぶぞ」 「ねぇ、奏さん。連絡先教えてよ」 「死ねっ」  ビールと弁当の入った袋を、蒼梧へと投げつけて。  オレは走ってその場を去った。   早く蒼梧から離れないと、膝が震えそうだったから。  オレは走った。とにかく走った。  日頃の運動不足が祟って、すぐに息が上がったけれど。  マンションの部屋の前までダッシュして、鍵を慌ただしく鍵穴に突っ込んでガチャガチャとノブを回して。  玄関に入ってすぐに、へなへなと足からちからが抜けた。  オレはしばらく、そこから動けなかった。    蒼梧の首筋からは、微かに。  オレを振ったあいつの香水と、同じ匂いがしたのだった……。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!