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記念誌に随筆
渡辺専一(わたなべ・せんいち)は、岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(現羽島市)で、耕地整理組合(農地を整理して、用排水路や道路を整備する組織)の副長を務めていた名士として知られていた。東京帝国大学農学部を卒業し、後にはある自治体の町長となるほど、将来を嘱望されていた人物だ。
1930年の晩秋。思いがけず渡辺は、隣村江吉良村にある清江寺で住職の話を聞き、随筆(エッセイ)を認める事になった。
組合は、太閤豊臣秀吉以来という土地を改良していた。近くその役割を終える組合は、これまでの活動や、組合が所管する地元の思い出をまとめようと、記念誌の制作を進めていたわけだ。そこで、江戸時代に地元にも多大な恩恵をもたらしたとされる、薩摩義士の活躍を、随筆としてまとめることになったわけである・・・。
渡辺は内心、先行きを暗くするような心配事も抱えていた。話は前年に遡る。竹ヶ鼻町に程近いある村の行事に、浪花節語りが訪れた。村民が憩う機会として設けた催しで、岐阜県を水害から救ったとされる薩摩義士を宣伝する役割を担っていた。
工事で総奉行を務めた、平田靱負正輔(ひらた・ゆきえ・まさすけ)や工事に関わった藩士らが、予算超過の責任を取り、一同に切腹して果てたと悦に入る語りを、村人は食い入るように聞いていた。
ところが、ある老人が「我が村は、あの工事のせいで十年一穫(10年に1度しか米が収穫できない事)となった。塗炭の苦しみを味わったのはご先祖ぞ」と声を荒げると、場は凍りついた。老人の頑張りに色気を失った浪花節語りは、いわば這々(ほうほう)の体で逃げ帰ったわけである。
書くに先立ち、上司からは「欲得で自分勝手な古老の言葉など、あまり気にしないでください。ただの読み物ですから、まあ肩を抜いて」と励まされた。
渡辺は「もし古老が機嫌を損ねるような読物を書けば、今後の再就職にも悪かろう。ただ、あまり嘘ばかりを書きたくもない」と身内に伝えて家を出た。
重い足取りで向かうと、江吉良小学校(現在は保育園)の近くにある同寺が見えてきた。門をくぐると、同地で亡くなったとされる3人の薩摩藩士を祭ったとされる墓が、整然と配置されていた。
大正に入り、就任した武田信保住職が、薩摩義士顕彰運動家として知られた岩田徳義(いわた・とくよし)の助言を受けて改めた。その脇には、かつて小崎利準岐阜県知事が揮毫(きごう・文字や絵を書くこと)したとされ、由来や意義などが記された石碑がそびえ立っていた。武田住職は世を去り、住職は当時の山田鉄船老師にルーツを辿ることができる、子孫が引き継いだそうだ。寺に入り呼び掛けると、一人の老女が表れた。
出迎えた尼僧(にそう=女性のお坊さん)に一礼すると、渡辺は同寺の由来から話を伺う事にした。寺は曹洞宗の末寺で、今は住職も務める尼僧の名は山田性道尼という。義士の顕彰運動に尽力した前住職から受け継いた山田は、宝暦年間に住職を務めた山田鉄船老師の兄から連なる子孫だそうだ。
老師は経緯を紙にしたためていたが、1896年の7月と9月に岐阜県を襲った大洪水で全てが失われた。尼僧はそれを暗誦していたという。差し出された茶を少し含み、いくぶん尋問に近い聞き取りを始めた。
昭和初期の竹ヶ鼻町(筆者蔵)
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