逆恨みの真相

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逆恨みの真相

 そもそも同地で何が起きたのか、渡辺は事前に「学校家庭課外読本薩摩義士」や「譽(ほま)れの千本松」といった本を熟読していた。  これらの本は、岐阜県薩摩義士顕彰会の大西吉雄(春翠)幹事が著わした作品で、多くの運動家が愛読していた。この作品について地元の古老にも話を聞いたが「あんな連中について話す事はない」と取りつく島もなかった。  それらによると、江戸時代の宝暦4年から5年にかけ行われた宝暦治水では、江吉良村や竹ヶ鼻町などを流れる逆川(ぎゃくがわ)の改修工事も行われたと言われる。木曽川と逆川の接合点には、流量が一定量を超えると越流して長良川に達するが、普段は木曽川の水が流れ込まないようにした。木曽川の水流が下流に素早く到達するよう、近くには猿尾も複数設けた。  川床が高い木曽川からは水が北上して流れ、川床が低い長良川に水の量を抑える。長良川やさらに川床が低い揖斐川の洪水を防ぐには欠かす事の出来ない工事だった。  ただ逆川を締め切れば、川船で輸送する米や絹、綿織物、木炭などの輸送に影響が及んだ。また長良川から流れる水を受け入れ、かつ一定水量を超えると流れ出す木曽川の水がぶつかる江吉良村では、あふれ出た水が長い間留まり、耕地の土が水腐れを起す可能性があった。故に村人の間で工事への評価は低かった。予防組合ができて逆川を完全に締め切るまでは、何度も水害を受け、警官隊が出動する事件さえ起きた。  渡辺は事情を説明し「真相を伺いたい」と頭を下げた。少し思案した尼僧は「これは、鹿児島県の南林寺から来訪した老師からの伝えによるものですが」と前置きし、話を始めた。 「宝暦4年のことでした。松平薩摩守(島津重年)様の家臣一同が、およそ千人を引き連れ、美濃の地でこれまでにない治水工事に取り組まれる事になりました」。尼僧は勧進帳の如く諳んじて見せる「ただ逆川左岸の桑原輪中は、工事に伴い収穫量が落ち込む事を幕府も認めておりました。そのため、村々は工事後、幕府の役所である笠松郡代を通じて、損害の一部については補償を受けております。なのに村人は彼等に逆恨みをしたのです」。  その話は渡辺も知っていた。(―鉄船老師は余程工事に理解がある人であったらしい―)少し眉につばをつけながら話を聞く。「老師は郡代様に反対する庄屋を拘束するよう求めました。これが蟠りの遠因であったようです」。なぜ禅寺の一僧侶がそこまで肩入れしたのか。渡辺は内心話の作り方に無理がある事を感じ取っていた。(―それでも、真実はあるはずだ―)表情を変えずに話を聞いた。  尼僧によると、葬られている瀬戸岩助は、一の手(岐阜県の桑原輪中から愛知県の神明津輪中まで)の区域を担当する小奉行の一人であったそうだ。共に墓がある大山市兵衛と平山牧右衛門は彼の部下であったらしい。村人は彼らを快く思っていなかったと続ける。「村人はお手伝普請にこられた藩士や工事を指揮する高木家、笠松郡代に何度も見直しをお願いしたようです。これがうまくいかず、悲劇につながったのでございます」と語ると、暗誦したという記録を思い起こそうとしていた。  渡辺は、多少聞いていた話から「義士が斬ったのは無頼の徒ではございませんか―」と続ける。すると一瞬尼僧の顔が紅潮し「先ほどお願いされました『真実』をお話ししたい」と、秘密を打ち明けるような表情で。思いがけない話を始めた。 98648c22-e526-4b92-b3fb-788362d76178 逆川洗堰近隣の堤跡
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