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寂れた墓標
報恩寺へ到着すると、民家とほぼ変わらない境内の片隅で、朽ちかけた石碑を見つけた。住職は不在だったが、寺には親族がいたため「山田鉄船老師のお墓はどちらにございますか」と声を掛けた。家人は「境内の石碑はご覧になりましたか」と尋ねた。渡辺が「朽ち果てて何も判読できませんが」と答えると「それが老師の墓であると聞いております。詳しい事はよく分りません」と答えた。
写真には収めてみたものの、上部は欠損しており、文字として読める部分も皆無に近い。墓石は天災か人災かは不明だが切断されており、下部に「法師」とだけ確認できた。裏には「安永2(1773)年7月4建立」と明記されていた。
(―なにゆえここまで粗末に扱われているのだ―)。少し慄然として組合事務所に戻った。竹ヶ鼻町助役で、地元の歴史にも明るい武藤重造に聞くと「村人の恨みでは」と答えた。「宝暦治水により、乾田二毛作から水腐れの地になった江吉良村は、逆川の排水が改良するまでは厳しい生活を余儀なくされた。結果として同地周辺はマニュファクチュア(工場制手工業)が浸透した」。
武藤は続ける。「村人の恨みが老師の墓に対する仕打ちとなったのでは。だが薩摩藩士の墓は、堂宇が崩壊した際見つかった時も、それほど毀損していなかった。老師や寺の歴代住職が守り伝えたためでは」と語った。
しばらくして書き上げた「薩摩義士を憶ふ」。渡辺は「感謝する時が来た」とまとめた。尼僧の話は含むところもあったが、できる限り意向を汲んだ。収録した「竹ヶ鼻第二第三耕地整理組合記念誌」は、関係者だけに配布したため騒動となる事はなかった。しかし記念誌が世に出ると、地元に立地する工場の従業員が、清江寺境内を毎朝清掃するようになったという。記念誌は今、市立図書館の資料室にしかない貴重書である。
逆川締切の洗堰の掲示(羽島市教育委員会)
山田鉄船老師(安永2年7月)の墓標(報恩寺、2019年7月13日撮影)
[参考文献]
渡邊専一「薩摩義士を憶ふ」(竹ヶ鼻第二耕地整理組合・竹ヶ鼻第三耕地整理組合『記念誌』1931
伊藤忠士編『宝暦治水御用状留―木曽三川の技術と人間』1996
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