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緑里は出来る限り速やかにシャワーを終えて出てきた。吾郎を待たせまいと気遣っての事だ。
着替えも済ませて客間へ行くと、母親と吾郎が向かい合って座っている。二人は軽い世間話をするくらいには打ち解けていた。
「お待たせしてすみません」
「あぁ、緑里ちゃん。お母さんとは、報酬とか大人の事情が絡むことを先に話させて貰ったよ」
母親の隣に座ると「気にしなくていいからね」と耳打ちをされた。その息がまだ少し湿った髪にあたり、こそばゆく感じる。
「私はお茶をご用意してきますね」
母親が緑里と交代するように席を外す。吾郎は「お言葉に甘えて」と軽い会釈で見送った。
部屋に二人になり、空気を変えるように吾郎が切り出した。
「さて。お母さんから少し聞いたけど、改めて確認させてね。依頼したいのは、脱走した家猫のクロちゃんの捜索って事でいいかな?」
「はい。けど、クロじゃなくてクロウです。ウ、が付きます」
ウ、と吾郎が口をすぼめた。手元に広げた手帳に、修正の線を走らせる。
「もう亡くなった祖父がつけてくれた名前なんです。祖父は源義経が好きで、源九郎義経からとってクロウ。だから響きは似ていても大切なんです」
「なるほど。クロウちゃん、ね」
緑里は今までになく、どこか遠い表情をした。今は亡き祖父に思いを馳せているのだろう。
一方の吾郎は、要点を手帳へと写していた。相手の目を見たまますらすらと書く技術は、話相手を安心させるために身につけたのだろう。
「それで、いつ頃脱走したんだい?」
「二日前の朝です。いつもは脱走なんてしようとしないんですけど、その日だけは玄関を開けた拍子にすごい勢いで飛び出してしまって……それで、その日は学校を休んで探しに行ったんです」
緑里は少し俯いた。恥じらいと後ろめたさの入り交じった様子だと吾郎は気付いた。
「じゃあ今日は制服を着ていたから、学校終わりに探していた所だったのかな?」
「はい。元々、部活動には入っていませんから」
真面目な娘だと言うことは、先程の母親との会話の端々から感じ取れていた。緑里を分類するならばお嬢様に近いのかもしれないと吾郎は思った。
「ちょっと関係ない事なんだけど」と続けて聞く。
「学校を休んだのは初めて?」
「風邪をひいたりはしたので初めてではないですけど、こういう理由というか、その……サボるような事は初めて、です」
吾郎は思わず失笑した。サボる、という言葉を使う事すら初々しいとは予想以上だった。
一方の緑里は、笑われるほどまずいことだったのかと思い込んだ。
「やっぱり、白間高校の生徒は真面目なんだね。僕なんて昔は、TVゲームの発売日だなんて下らない理由で休んだこともあるのに」
緑里は返事に詰まった。それは決して、吾郎の高校生活が思ったよりも不真面目だったからではない。緑里にとって不思議なことがあったからだ。
「あの、私が白間高校だって母から聞いたんですか?」
「ん? あぁいや、会った時に白間高校の制服だったから。ついでに、胸ポケットのラインが赤色だから二年生かと。もしかして、違ってた?」
緑里は言葉を失った。
どこの制服なのかを把握している、まではよくあることだ。だが、赤・青・黄色の三色を毎年学年ごとに一色ずらしていくのは、白間高校の伝統の中でも地味なことだった。関係者や生徒の中でも、気づいていない者が多い。緑里もつい最近、先輩との世間話で知ったばかりだった。
それを知り得ていて、直ぐ様気づいていたのだ。
「探偵って……すごいんですね」
「おだてずとも正直な感想を言ってくれて構わない。気持ち悪かったなら謝るよ」
吾郎は乾いた笑いでおどけて言って見せたが、その表情は呆れ顔だった。
職業病で染み付いた情報収集癖が、初対面の人を不安にさせてしまうのはよくあることだった。そして不当に疑われ、嫌われることにも慣れていた。
「気持ち悪いだなんて──少しだけですよ」
ふふ、と緑里の顔が綻んだ。
それは吾郎にとって初めての反応で、どうしていいのかわからず、先程の緑里と同じように固まることしか出来なかった。
「……君は珍しいね。冗談だなんて初めての返しだ」
「あぁ、よかったです。ちゃんと冗談だってわかってもらえて」
おかしな沈黙を挟んでから、二人は同時に笑い合った。
お茶を持ってきた母も、ここしばらく見られなかった娘の笑顔を見て安堵の笑みを溢した。
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