探偵 二宮吾郎

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ベルがカラコロと鳴り響く。喫茶店『ブラン』への来客を知らせるベルだ。 その音が聞こえると、店の奥から髭をこさえた大男が慌てて現れた。この店の店主だろう。 「いらっしゃ──何だ、二宮か。お前は裏から入れと言ったろう」 「あぁごめん、マスター。ただいま」 マスターと呼ばれた大男も「これで何度目だ」と言葉では強く言いながらも、まぁ仕方ないと何だかんだで許している様子だった。 それどころか何も言わずに、コーヒーを一杯用意し始めている。 「それで今日はどうだったんだ?進展ありか?」 小さな音を立てて、優しくコーヒーカップをカウンターテーブルへと置いた。吾郎はその席へ座りカップを手に取った。 「ありがとう。あの件の進展はなかったよ。けど、別の依頼を受けてきた」 ほう、と合いの手を入れ、マスターは自分の髭を撫でた。 自分の分のコーヒーも淹れて、吾郎の向かいに座る。こうして話すのは、マスターと吾郎の習慣のようなものだった。 「猫探し。マスターも見てない?赤い首輪に鈴をつけた黒猫くん」 「星座の数ぐらいにはありふれた特徴だな。見かけていたかもしれないが、そいつかどうかは知らん」 そうだよな、というため息をついてコーヒーを口に運ぶ。酸味は薄く、コクは深い。吾郎好みのフレーバーが喉を通り鼻を抜ける。これに甘いデザートを合わせるのが、吾郎のお気に入りの楽しみ方だ。 「お前さんは断ったりしないのか?そういう……言っちゃなんだが、無理に近い依頼は」 「うん。お金に困ってるから──ってのもあるけど、何より依頼人が困ってる事だからね。見過ごすわけにはいかない。そういう人たちを助けたいから、あそこを離れたわけだしね」 吾郎は愛想笑いを浮かべることもせず、一際苦そうな表情をした。 吾郎が昔を思い出している事も──それが後悔に似ている事もマスターには感じ取れたので、これ以上踏み込むことはしなかった。 「ま、それがお前さんのポリシーなら口出しはしないさ。俺だって俺のポリシーでこの喫茶店開けてんだからな」 マスターがコーヒーを口に含んだ瞬間、大きな電子音が鳴り響く。危うくむせかえりそうな所を、なんとか踏みとどまった。 電子音は吾郎のスマートフォンからだった。ディスプレイに浮かんでいる名前は、番号交換をしたばかりの緑里だった。 迷う間もなく応答する。 「はいもしもし、吾郎です」 『あっ、吾郎さん!突然すいません。えぇと、その、父が、お話しをしたいと』 大方説得に失敗したのか、話の雲行きが怪しくなったのだろう。こういう事態も珍しいことではない。 二つ返事で父親の説得を引き受けた。 「お世話になっております、探偵の二宮吾郎です。……えぇ、はい。そうなんです、“にのみや“じゃなくて“ふみや“なんです。ややこしくてすみません本当。……はい。……はい、えぇ」 吾郎はスマートフォンを手放すことなく、マスターへ感謝のジェスチャーを送りながら、店の奥から繋がる2階へと登っていった。 「ったく、やれやれ。貧乏暇なしってのはこういう事かい」 ほんの少し残った吾郎のコーヒーを下げ、静まった店内には洗い物をする音だけが響いた。
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