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裏口から店内へ入ると、丁度マスターと鉢合わせた。その片手には大きなビニール袋が下げられている。
「おう、二宮。今日は珍しく裏口からか」
「ただいま、マスター。ちょっと一人いいかな?」
そう言うと、吾郎の後ろにいる緑里の存在にマスターも気付いた。女連れだと茶化す様子もなく、いつもの事のように返事をした。
その緑里は、赤く腫れた自分の顔を気にしていた。大人びていようとも落ち着いていようとも一人の女子高生なのだから、ついさっきまで泣いていた姿に恥ずかしさはある。
「は、はじめまして」
「いらっしゃい。ちょっと待っててな、ごみを捨ててくるから。カウンター席にでも座っててくれ」
「じゃあ、ちょっと一階で待ってて」と吾郎は言い残して、近くの階段を上がっていった。
緑里はマスターと入れ違いになりながら、店内のカウンター席へと向かった。
「し、失礼します」
マスターに届かなそうな声量で呟き、端のカウンター席へ座る。
店内を見渡すと、壁かけの小さな照明がいくつかあり、落ち着いた雰囲気を作っていた。今は他にお客さんはいないようだ。
カウンターの向こうにはいくつものコーヒー豆や何かのパックがあり、店主のこだわりが見てとれる。
「待たせたな、お嬢ちゃん」
マスターが裏口から戻ってくると、何を聞くでもなく黙々と作業を始めた。あっという間に緑里の目の前にお茶が出される。
「……あの、これは?」
「サービスだ。気にすんな、二宮のお客さんには全員こうしている」
マスターの言葉と笑顔に甘えて、口元へ運ぶ。
ふわり、とラベンダーの独特の香りがする。鼻へ抜ける香りは豊かだが、口当たりはすっきりとしている。
「おいしい」と自然と言葉が溢れた。
「口に合ったなら何よりだ。ラベンダーにローズマリーのブレンドだ。気持ちを落ち着かせる効果がある」
「そこまで考えて淹れてくれたんですか?」
「いや、二宮が連れてくるお客さんには大体これだな。──あいつ、人の心のケアは下手だからな」
マスターが言っているのは、吾郎の実直な物言いのことだろうと緑里は思った。
確かに、本質や真実から逃さない彼の物言いは、人によっては急き立てられているようにも聞こえてしまうだろう。
しかし緑里は「そうでもないですよ」と言った。
「私は安心します。二宮さんは真剣だからこそ、隠さずに言ってくれるんだと思います」
「そう思うのはきっとお嬢ちゃんが強いからだろうよ。あいつの言葉は時々、真っ直ぐすぎる。だから俺がこうして、飲み物やトークで幸せな気分になれるようにサポートしてんのよ」
マスターは話をしながら、自分の分のコーヒーも拵えていた。当然のように向かいに座りながら、店内を眺めている。
「あいつも守秘義務とかで話さんから詳しくは聞いていないが、黒猫を探してるってお嬢ちゃんか?」
「はい、そうです。今日はそれで……保健所を、見てきました」
納得がいった、というため息をしてからマスターは自分の髭を撫でた。
「あそこを見たなら、そりゃあ不安にもなる。だが大丈夫だ。あいつは、二宮は絶対に探し出す。
あいつ自身は性格上『絶対に』とは言わないが、『絶対に』って執念はある」
慰められた、とは思わなかった。緑里は確かに不安がっていたが、それは対象のない漠然とした不安だった。
対してマスターの言葉は、二宮への確実な信頼だった。そしてその信頼は、緑里の中にも小さくあったからだ。
だから慰めではなく、共有という感覚が近かった。
「きっとそうですよね。二宮さんとはまだ会って短いですけど……その短い間に、沢山頑張ってくれているのは伝わってます。だから、きっとって思えます」
「そうだ、あいつは信じていい。俺が保証する。
──お嬢ちゃん、入ってきたときよりもいい顔になったぞ」
マスターが豪勢に笑った。その笑顔につられて、緑里も小さく笑みをこぼす。
「お、仲良くやってる」
そこへ話題になっていた二宮が、資料を片手に降りてきた。探し物は心当たり通りにあり、簡単に見つかったようだ。
緑里の隣へ座り、その資料をカウンターへ広げる。
「これは、猫の写真? ……全部野良猫ですか?」
「そう。この辺りの野良猫をマッピングしたものでね。猫探しの依頼は多いから、その手の人にいつも頼んでいるのさ」
黒猫ばかりでなく縞模様やハチワレ、様々な模様の猫の写真がファイリングされていた。チェキで現像された写真の余白には、日時と場所が記入されている。
既に亡くなった猫や、同一の猫だと確認された過去の写真には、大きくバツ印がされていた。
「特に可能性があるのは、この三枚。これが川辺にいた子。こっちは住宅街に住み着いている。こっちは……」
最後の一枚を見た瞬間、緑里は目を見開いた。
やや後ろから撮った黒猫の写真には、しっかりと赤い首輪が見える。
「──この写真の子、きっとクロウです! 体型も似ていて、首輪もそっくりです」
緑里は自分のスマートフォンを操作し、画面に一枚の写真を表示する。
そこには先程の写真と似た角度でクロウが写っており、確かに肉付き具合も似ていて、尻尾の長さまでそっくりだった。
再び写真を見返すと、記入された日付は昨日だった。これならば、と二人は明るい顔をして見合せた。
「まだ発見から日も経っていない。明日はこの場所周辺を探してみよう」
「はい!」
喜びの一方で、二宮は自分の不手際を感じていた。
資料の写真を忘れずに持ってきていれば、あんな辛い思いはさせなかったかもしれない。そう自責していた。
そしてそれをマスターには見破られていて、コツンと肩を小突かれた。それがどういう意味かは、吾郎もすぐにわかった。
「今日のところはもう送ってやんな。明日見つかりゃ万々歳だ」
「うん、そうだね。明日こそ、クロウを見つけよう」
はい、と返事をする彼女の顔は、期待に満ちた笑顔だった。
それを見た吾郎は、落ち込んでいる場合ではないと自身に言いつけた。
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