前編

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前編

「いってらっしゃい、気をつけて下さいね。これサンドイッチと飲物」 「ああ、ありがとう。リンも危ないから森の方には行くなよ」  私とオッサンとのいつものやり取り。 「分かってますってば」  軽く手を上げて歩いていくオッサンを見送りながら、 「さて、洗濯でもしますか」  と家に入る。  私がこの森の外れの割りとボロいけど広めの家で、オッサンと暮らすようになってからもう二ヶ月が過ぎた。  前は日本と言う国で普通にOLをしていたのだが、住んでいたアパートが夜中火事になり、煙に気づいて逃げようと思った時には、一酸化炭素中毒なのかもう体が思うように動かなくなっていて、玄関近くまで這うように向かった後からの記憶がない。  そして、気づいたらパジャマで森の中だった。  ケガはしてないが、素足で歩いてたら間違いなくケガするだろうな、などと呑気に考えてた自分は かなり肝が据わっている。  これが噂に聞く異世界というヤツなんだろうか。  夢遊病だとしても、フラフラとパジャマでこんな薄暗い森まで歩いて来れるはずもないし、私のアパートの周辺に森なんかなかった。  転移だか何だか分からないけど、とりあえず帰る方法も分からないし、そもそも戻れるかどうかも不明だ。あっちでは死んでるのかも知れない。冷静に考えてもその可能性は高い。  まあ、家族も恋人もいなかったし、取っ替えのきく事務仕事だ。借金も幸いなかった。私が死んでたところで、精々片づけの手間と無縁仏が1つ増えたぐらいのもんだろうと思う。  26でこれから結婚もして家族も作れるかもと言う期待はあったけど、叶わぬ夢だった訳だ。  んん?転移したならこの私は生きてるのか。向こうの存在がなくなっただけだろうか。よく分からない。  しかし、助かったのならどこの国だろうと生き延びる努力はしないと。  森をまずは出よう、と歩き出して五分と経たない内に、足の裏を切っていた。 「靴生活者はヤワだわー」  少し凹む。  でも雑菌も怖いが、段々空を見ると陽射しが傾いていくのを感じる。  今は夕方みたいだし、こんな樹海みたいなところで夜を迎えるのは雑菌が入るより怖い。  我慢して歩いて行くと、獣の唸り声がして体が固まった。  ちょっとまた死ぬのかしら私?  早すぎない?ねえ。  振り返ると、熊のような大きさの猪みたいなのがダラダラと涎を垂らしながら私を見ていた。牙が鋭そうで一撃でやられそうだ。  無理。素手でいきなりこれは無理。  腰が抜けた。 「誰か助けてー!」  それでも諦め悪く叫ぶ。  こんな森に誰がいるとも思えなかったけど、ただ死んでエサになるのだけは嫌だった。  すると、獣の唸りが悲鳴に変わり、首に矢のようなものが刺さっていた。 「え?」  ザザッと草をかき分ける音がして、背の高い髭を生やしたオッサンが飛び出して来た。  30代?40ぐらいかな。鍛えられたような厚い胸板に逞しい二の腕。  マッチョは苦手だったが、今ほど頼もしく感じる事はなかった。  暴れる猪もどきに剣で止めを刺し、私を見た。 「大丈夫かお嬢ちゃん?」 「は、はい………た、助かりました」  今頃体が震える。 「そんな薄着で森の中にいるなんて自殺行為だぞ?ほら、歩けるか?」 「はい、何とか………」  立ち上がると、足の裏の痛みが振り返し、顔をしかめてしまう。 「………ケガしてるのか。じゃ申し訳ないが急ぐから」 「はい?うおっ」  いきなり抱え上げられ走り出され、乙女とは言い難い声が出た。  しかし人を抱えて走れるとは身体能力の高いオッサンだ。  オッサンの家は思ったより近く、10分としないうちに辿り着いた。  家に入ると私をソファーにそっと座らせて、足の裏を消毒し薬のようなものを振りかけると白い布を巻く。 「これで化膿はしない筈だ。色々話を聞きたいところだが、ホークを取りに戻って急いで血抜きをしないと臭みが出るから、戻ってからにしよう。休んでてくれ」  ホーク?あー、あの獣の事か。  食べられるんだ。食料になるなら良かった。助けて貰っただけよりは気分的に少しは楽だ。 「ありがとうございます」  私はオッサンが戻るまでじっとソファーに座ってたが、環境の激変に疲れきっていたらしく、気がついたら眠っていた。  美味しそうな匂いがして、ガバッとソファーから身を起こした。 「お?起きたかお嬢ちゃん。もうすぐ出来るから先ずは飯にするか」  キッチンで何やら作業をしているオッサンに慌てて立ち上がりお詫びする。 「助けて頂いた上に寝てるなんて本当にすみません!」 「気にするな。あんなデカイ獣に襲われそうになったんだ。  そうだ、風呂も沸いてるから先に入ったらどうだ?お嬢ちゃんのサイズには合わないだろうが、着替えに俺のシャツとゴム入りのパンツ置いといたから使ってくれ」  確かに泥のついたパジャマで食事はしたくない。ありがたく使わせて頂くことにした。  お風呂は広々としていて、良い匂いのする木で湯船と洗い場が作られており、まるで温泉旅館のようである。お湯も柑橘系の香りが気持ちいい。石鹸とシャンプーのような液体もある。  これだけ大きいのもあのオッサンがのびのび入れるようにだろう。  2メートル近くはあるだろう。164センチの私ですら立ち上がった時、オッサンの胸元ぐらいしか届いてなかったのだから。 「その割りには威圧感がないのよね………」  喋り方が柔らかいせいか、あれだけ背が高くて筋肉の塊みたいなゴツい人なのに怖くはない。  命の恩人でもあるからその印象もあるのだろうか。    風呂でパジャマと下着を洗って出て気づいた。  下着がないじゃない。  ノーパンは流石に………と慌てたが、なんとボクサーパンツのような下着も着替えに入っていた。  オッサンの気遣い素晴らしい。  ブラがないのはもう仕方ない。  シャツは大きすぎたが腕を捲ればいいし、ゴムウエストのパンツもイージーパンツみたいで裾を折り返してなんとかOKだ。 「お風呂ありがとうございます。あの、着ていたのを洗ったのですがどこに干せば?」 「ああ、二階に上がってすぐのとこに使ってない部屋があるからそこ、に………」  スープの味見をしていたオッサンが振り返り、沈黙した後に鍋に視線を戻し、 「………あー、もう飯が出来たから、洗い物干したら降りてきてくれ」 「はい!」  私が二階に上がり、4つ部屋があるうちの一番手前のシンプルな造りの、テーブルと椅子とベッドと小さな箪笥だけの部屋に洗濯物を干して降りていく。  足の裏をオッサンが改めて消毒し粉を振り掛け布を巻く。  既にテーブルにはスープや肉を焼いたようなものが並んでいて、丸いパンも籠に山盛りになっていた。 「うわぁ美味しそう………」  席につくと思わず出た台詞に自分で赤面した。 「そうか。沢山あるから食え」 「はい、頂きます」  思えば目覚めてから何も食べていない。  スープはポトフのような感じで、ゴロゴロ入ってる野菜も優しい味でとても美味しい。  お肉はさっきのホークとかいう獣だそうで、塩コショウして焼いただけのようだが、肉が柔らかくて少しクセはあるけどこれも美味しい。 「とっても美味しいです!」  笑顔で礼を言うと、オッサンは照れたように、 「大したもんじゃねえよ。気に入ったならスープまだあるからな」  と鍋を指差した。  さすがに空腹とはいえ、スープをお代わりして大きめのパンも2つ食べてお肉を平らげるとお腹一杯である。  オッサンは倍近く食べていた。肉までお代わりしてパンに挟んで美味しそうに食べている。  むむむ、その食べ方今度やりたい。でも今は無理。  食事の後は、紅茶をオッサンが淹れてくれて、ソファーに移った。 「それで、なんであんなとこに?」  どうせ信じて貰えないだろうから適当な嘘をつくことも考えていたが、これだけ親切にしてもらってるのに嘘をつくのは良心が痛む。本当の事を言うべきだろう。 「信じては貰えないと思うのですが………」  私は語った。日本での生活と、火事で逃げ出そうとして気づいたら森の中にいたこと。どうしてやって来たのかどうすれば戻れるのか分からないこと。ただ、このままでは暮らしていけないだろうから、生活のために何か出来る仕事があればやりたいこと。  思いつくままに話して、オッサンの顔を窺う。山男みたいに頬から顎まで髭が生えているので表情が読みにくいが、グレーの瞳は馬鹿にしているような印象は受けなかった。 「そうか………神の愛し子か」 「何ですかそれ」  時たま、どこからか分からない世界からこの国に現れる人がいるのだそうだ。  川岸だったり森だったり山だったり、男だったり女だったり。  こちらの人間が知らない知識や技術を持ち、この国もその愛し子が何人か現れたお陰で、風呂や本を印刷する技術など様々な生活が向上したとか。  愛し子と言う割りに、結構人のいない所に放置するとか扱いがどうなんだとは思うが、いきなり大勢の人の前に落ちてきたらそれはそれで大騒ぎになると思うので、致し方ないといったところなのだろうか。 「信じてもらえなかったらどうしようかと思いましたが、先人がいるなら良かったです」 「ああ。だが、仕事は難しいかも知れないな。王宮に報告すれば保護されるからな。色々と話を聞かれて、役立つ知識がないか、活かせる能力がないか調べられる。  多分、利用価値がある人間だと判断されたら一生保護下だし、王宮からはまず出られん。使えない人間だったとしても、判断されるまで十年二十年かかるし、その間に王族や側近などと結婚して子供を作ることを要求される。衣食住には困らないだろうが、自由は余りないだろう」  えげつないな。  私なんかただのOLだったし、特技もない。使えない人間の方なんだろうけど、いくら衣食住困らなくても、自由がないのは辛すぎる。 「因みに、元の世界に戻れた方はいたんですか?」 「………いや、聞いたことないな」  そうですか。戻れない可能性大と。  しかし、王宮に行きたくないとは思っても、仕事がないとお金も入らないだろうし、生活はどうしたらいいんだろう。  頭を抱えてしまう。 「………お前が王宮に行きたくないのなら報告はしない。  俺は独り暮らしだし、客用に使える部屋もあるから、暫くここで暮らしながら、この先どうするかゆっくり考えればいい。  まあ、たまに料理や掃除なんかしてくれると助かるがな」 「そんなのお安い御用ですけど、………甘えてしまっていいんでしょうか?」 「ダメなら最初から言わねえよ」 「………ではすみませんが、行くところもないので暫くお世話になります。ありがとうございます。私はリンと言います」 「俺はサイクスだ。よろしくなリン」  こうして二人での生活は始まったのだった。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  サイクスは腕の良いハンターのようで、森で鳥獣を獲って肉や毛皮を売って生計を立てていた。  一緒に暮らしはじめて数日。  朝早く出ていったサイクスは、夕方背中にかなりの大荷物を背負って戻ってきた。 「サイクスさん、すごい荷物ですね」  出迎えるとキッチンのテーブルにドンドンと荷物を積み上げて行く。 「調味料とか色々無くなってきてたからな。後、いつまでも俺の服を着てるのも悪いからな。でかくて動きにくいだろう?」  そう言いながら紙袋を渡される。  中を開けると、シンプルなワンピースやTシャツっぽいアウターと小さめのイージーパンツなどの女性用の洋服が何枚か、そしてまさかの下着まで入っていた。 「こんなに沢山!下着なんて買うの恥ずかしかったでしょう?本当にご迷惑おかけしまして………でも、働けないのでこんなに頂いてしまってもお金返せませんよ」 「気にすんな。俺は結構稼ぎが良いんだ。それに女の子は可愛い格好の方がいいだろう?」 「まあ女の子って歳じゃないですが、確かに嬉しいです」  私は新しい服をうきうきしながら畳んだ。 「………え?リンは幾つなんだ?」 「はい?26ですけど」 「うぇっ?てっきり俺は14、5かと………俺と5つしか違わないのかよ………」  日本人は確かに若く見られるが、さすがに14、5はないだろう。いやそれよりも、 「サイクスさん31なんですか?!そっちの方が驚きましたよ!」 「昔から童顔だったんで、仕事柄舐められたくなくて髭を生やすようにしてたら、今度は40以上にしか見られなくなった。  仕事には便利だがな」 「へえ。見たいですね髭のない顔も」  2メートルもある童顔のムキムキ男。  ある意味レアである。 「………機会があればな」 「はい、楽しみにしてますね」 ーーーーーーーーーー  竈の使い方にも慣れて、料理も失敗する事がほぼなくなった。  普段から無口なサイクスさんだが、料理が美味しかったりすると、口角が上がって沢山食べてくれるので、頑張りがいがある。  結婚してたらこんな生活だったのかな、とも思う。誰かのために料理をすると言うのは、とても心が温まるものだった。 「………リン、元の世界に戻りたいか?」  ある日の夜、初めて作ったクリームシチューを4杯もお代わりしてくれたサイクスさんが、私に聞いた。 「うーん、生活の利便性や仕事が出来たりする事を思うと、帰りたくない訳ではないですが、別に待ってる人がいる訳でもないし、そんなに切実でもないですね」 「その、元の世界で家族とかは居なかったのか?」 「結婚もしてませんでしたし、親も居ません。私捨て子だったので、施設で育ちましたので。  ………あ、施設って孤児院みたいなものです、分かります?」 「ああ。………そうか、リンは大変だったんだな」  大きな手でそっと頭を撫でてくれた。 「大変でもないですよ。学校出るまでは国から補助も出ましたし。仕事も割りと早く決まりましたし」 「そうか」 「サイクスさんは独り暮らしが長いと言ってましたけど、ご家族は?」 「両親と兄がいたがな、だいぶ前の戦で死んだ」 「そうですか………結婚なんかは」 「まあ森の中でこんなむさ苦しいオッサンと暮らす奴は居ないだろう。  それに、あの女性が使う香水とか化粧ってのが俺には苦手でな。鼻がおかしくなる。狩りでも鼻が利かなくなれば仕事にならん」 「はぁそうなんですね。私も前の日本では化粧してましたが。女性というのは少しでも綺麗に見て貰いたい生き物ですからねぇ。  今は化粧品もないのでかえって失礼かと思ってましたが少しほっとしました」  私は苦笑した。平凡な顔も化粧でパッチリくっきり出来て、私のような地味な顔もそれなりになっていたのだが。  あれ、でもサイクスさんしか見る人がいないのに何で綺麗にしたかったのかな。  礼儀だろうか。………うん、そうだきっと。 「………リンはそのままで可愛い」 「あはは、ありがとうございます」  きっと子供的な可愛いなんだろう。  何しろ中学生に間違えられてたのだから。 「あ、そうだ、明日は早朝から出て次の日の夕方になるまで戻れん。街で調べものがあってな」 「………そうなんですね………」  食事も一人分だと途端に作るモチベーションが下がるのは何故だろう。 「戸締まりはしっかりして寝るんだぞ。なるべく早く戻るから」 「分かりました。お土産はお菓子をお願いしますね」 「分かった」  翌日、起きたときには既にサイクスさんはもう出掛けた後だった。  
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