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送り神
規則正しく並べられた寝台と消毒薬の強いくきつい匂いが漂う部屋のなかに私はいた。列を並べる三つの窓から見える暗い闇は、これから起こることに祝福などせず、ただその運命を否定するかのようで、でも逃れることができずに顔を背けているようだった。
「だれか……いるのか」
その言葉に対して、私は何も答えない。
無機質な管に繋がれた──入り口から見て右側三番目の──寝台で寝ている年老いた男。目は閉じたまま、喋ることもできずに、機械につながる管によって生かされている。
そんな彼のもとへと、足音をたてずに向かっていく。他は誰も──その男でさえ──私には気付かない。全てのものが眠りに入る時間帯なのだから、当たり前なのだろうが。
「だれか……いるのか?」
その男の前にたどり着いたとき、再び声が聞こえた。
「答えてくれ……何も見えないんだ」
口も、まぶたも開けない。それどころか指の先を震えさせることも出来ないのに、声はそこから聞こえてくる。
「はい。今、私はあなたのちょうど真横にいます」
「ああ……そうか。こんな何も出来ないジジイに何かあるのか」
「ええ、そうです。あなたをお迎えに来ました」
「迎え……だと? こんな時間に」
相変わらず動くことの出来ない体とは別に聞こえてくるその声は困惑して、そして続けた。
「はは、ついに来たのか。あんた死神だろ」
「分かるのですか?」
「分かるもなにも、それしかあるまい。……誰にも看取られずに逝くことになるとはな」
「……後悔していますか?」
「後悔なんてしないさ、どうせ追い出された身、誰も悲しみはしない」
全てを知ったその声は、透き通った声で、憎しみも、悲しみも、何も感じさせない。
動くことのない手を取り、私は告げた。
「それでは行きましょう」
「だが、これでは動けない。それはあんたも分かるだろ」
「大丈夫です」
膝を折り、優しくほほえみ、告げる。
「その体はただの殻です。あなたの思い次第で簡単に破けます」
「だが……」
「大丈夫です。信じて」
強く握り、願った。この世に未練や後悔が無ければ抜けられるのだから、後は彼を信じて見守るしか無かった。
「さっき、後悔してないと言ったな」
「はい」
「……一つだけあった」
「なんですか? 話してください」
「もう、何年も前になる。妻がいたんだ、でも……」
「でも……?」
「もう、いない」
ただ、黙って彼の話を聞いていた。この状態で私のことを見えているか、分からなかったが、適度に相槌をうち、聞いていた。
「子供が産まれるとき、新しい家族が出来るとき、妻は……」
声の調子が下がり、少しの間を開けて続けた。
「事故だったらしい……」
窓の奥は相変わらずの闇。全てが溶け込んでしまうほどの闇。光は見えず、ただそこにある。
「俺か妻か、どちらかを選べと聞かれたら、俺は間違いなく妻を選ぶ。いや、選んだ。……だが、あいつは……妻は自分のことより子供を選んだ」
「それを後悔しているのですね」
「いや、そんなことはどうでもいい。大切なときに側にいることができなかったことが、それが……」
「大丈夫です」
「いや、そんなはずは無い。俺は……」
「大丈夫ですよ」
握った手を緩めて、彼を包み込むように優しく答えた。
「あなたはこれから、不思議な世界に行きます。でも、恐れることはありません。ヒト……いえ、この世に生きる全ての生き物がやがて訪れるところです」
「すべてが……?」
「はい」
「なら、そこには……」
そのさきは聞くまでもなかった。
「はい、いますよ。あなたが願ったひとも、だれもが皆います」
「俺は……許されるのか……?」
「ええ、きっと。だから安心してください」
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