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ハンカチを頬へあてがい、伝う雫を掬うように拭き取る。
透明な筈の水滴が僅かに濁っていた。泣く予定があると知りながら、なぜ無粋な飾りを盛っているのか。
撮影を任され、ファインダーを覗きながら笑顔の親子写真をフィルムへと記憶させた。
* * *
勤めている小学校で卒業式が行われた。
卒業生は四百弱。
学び舎から旅立つ我が子の晴れ姿を残そうと、保護者席からは無数のシャッター音が響き合い、終盤では涙を流す姿も見えた。
受け持つクラスもないので、別段達成感や寂寥などはなく、心情は至って冷静なまま進行に身を任せていた。
(これが終わったら…春休みから新学期への予定確認とか準備とか…)
校長やPTA会長の祝辞を流し聞きながら、頭の中では次から次へと待ち構える仕事の一覧が滝のように流れていた。
卒業式は当事者たちにとってみれば大切な行事であるが、生徒達とも保護者達とも然程関わっていない身としては正直流れ作業に近い。
五年生から傍にいた担任の先生方への気遣いを忘れなければ、わりとあっという間に過ぎていく。
そうして全ての生徒達が下校すれば、今期の大きな区切りがついたと溜息をつき、デスクで残りの仕事に手をつけることができる。
*
「メジロさん」
自分以外人の姿のない職員室の扉が開き、数秒後静寂をやんわりと取り払うような呼びかけが耳に届いた。
顔を上げ声の方へと目を向けると、スーツ姿の男性教師が笑顔を向け俺を見ていた。
「鶯さん」
俺を呼んだのは三年生のクラスを持つ二歳年上の先輩教師だった。
体育館で片付けを手伝っていた筈の彼の姿に、片付け終わったんですか?と問いかけた。
「さっき一通り終わってね、一足先に抜けて体育館にいる先生方に珈琲でもと思って来たんだ」
「お疲れ様です。
すみません、男手必要なのに回れなくて」
「いいのいいの、六年教室の片付けだってわりと骨が折れるだろ?」
「ええ…そう言って頂けると有難いです」
やんわりとした口調を崩さず、彼は戸棚からカップを取り出しインスタント珈琲をそれぞれのカップへと分けていく。
その姿にハッとして思わず立ち上がる。
近付く足音に気付いた彼が不思議そうな目を向け、スプーンを持つ手を止めた。
「どうかした?」
「いえ、手伝います」
「…ふ、メジロさんは何年経っても律儀だね」
珈琲が入っているカップを持ち、ポットのお湯を注ぐ。
年上が更に上の先生方に珈琲を入れているのを傍観したまま自分の仕事など出来ない。
以前からこうした行動を取ると、律儀だとか真面目だとか言って彼は困ったような笑みを浮かべる。
鶯さんは、俺がこの学校に配属された当時から『さん』付けで俺を呼ぶ。
大抵教職の人間は上だろうが下だろうか先生と付けて個人を呼ぶが、彼は何故か俺を一度も先生付きで呼んだことがない。
けれどその理由は今となってはもう必要ではないが…。
「メジロさん」
「はい」
「ひょっとして、上がるところだったかな」
「…、いえ、もう少し作業があったので…」
もう、と言った理由には、単純に一度訊ねたことがあるからだ。
故に、俺も彼のことを先生付きでは呼べなくなった。
湯気が立ち上るカップの列を眺めていると、彼が余計に一つ出したカップへ珈琲を投入した。
俺の返答に良かったと零しながら、カップを差し出した。
さり気なく入れられた珈琲を前に数秒ぽかんとしたが、『はい』ともう一度カップを差し出されたのを合図にやや動揺しながら受け取った。
「すみません…俺の分まで」
「いいよ。おじさん達と珈琲飲んでも美味しくないからね」
淹れたての珈琲を啜り、彼は落ちついた声音で上辺の気配りを裏付けるような言葉を吐いた。
にこ、と湾曲を描いた口元と優しげな目元。
やや釣り目の鶯さんは、笑みを浮かべると他意はなくともどことなく色気が滲む。
密かに、刻み込まれたものがドクリと湧き立つ感覚が胸骨の奥から伝わり、気付かれまいと唇を引き結んだ。
「メジロさん、どうかした?」
「え?」
目を合わせ続けると良からぬ流れを生む気がして珈琲へと視線を落とす。
すると逸らされた視線を追うようにして、声が降った。
応答はしたものの、顔は上げられなかった。
「気の所為かな、頬が赤いよ」
「…そんなことないですよ」
否定の返答の直後、ひたりと彼の指先が頬に触れた。
びく、と肩が弾み、思わず身を引いた。
「…っ」
俺を見つめる瞳に抗い難い拘束力が窺えた。
直後に強制的に距離をゼロにされ、腰には鶯さんの腕が巻き付いていた。
罠にはまったような気分だった。
もう止めましょうよと云ったのに、この人はまるで聞く気がなかったのだろう 。
「…ああ、やっぱり気の所為じゃなかったね。
赤くなってきた」
「…、放してください…」
「俺の手が触れただけで赤面されたんじゃ放すなんて勿体無いな」
「…っ職場には持ち込まないって約束したじゃないですか」
「ああ…確かにそんな約束もしたね」
閉じた瞼が弧を描く。
意地の悪い笑みだ。
けれど俺はこの緊張をからかうような態度に冷めるでもなく、どんどん刺激され続ける情がいつ色欲となり表情や言葉として出やしないかと、そればかりを心配していた。
彼は空いた片手で逃げもしない体を抱き寄せ、初な処女を愛でるように頬を撫でると、口元の笑みを強くした。
「約束はしたけど…職場でこんな色っぽい顔するんじゃ、メジロさんも不履行にしているのと同じだよ」
艶を纏う声が耳元で低く響き、背に快楽の蔓が絡みつく。
抱き留められた彼の胸元でジャケットを巻き込みながら拳を握る。
俺の理性が崩れる塩梅を知っているが故に彼の声は静かに甘く扇情的になり、まだ何もされていない内から俺の吐息に切なさが帯びているのを楽しげに聞いている。
「久しぶりだね…こんなに近くにいるのは」
「っ…ちょ…いい加減にっ…!」
囁く声が鼓膜を擽る。
絡みつく蔓が敏感な神経を煽る。
耳元にある唇から離れようと顔をそらすが、ぐ、っと腕に力が込められ、苦しさから微かな呻きが洩れた。
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